東は東 弾かれた石はもう止まれない 前編




炎の包囲網から能力を使って抜け出し、葵たちからも姿を眩ました。
桜井機関の敵である筈の高千穂勲を伴い、俺は大連郊外の屋敷にいた。

「我々の隠れ家の一つだ。さ、中に入ろう」

周囲を炎に囲まれたせいで、酸素が足らなくなり、足元をふらつかせていた男は、いつの間にか自分の
足でしっかりと地面を踏んでいる。肩を貸す必要はなくなったのだと、徐々に身を引いた。
屋敷に明かりが灯っていなかったので無人かと思ったが、傍らの男が屋敷の扉を開けると、暗がりから
数人の男が現れた。中には、以前何度か我々の前に立ちはだかった長身痩躯の男もいる。

「あぁ、心配ない。伊波くんは私を助けてくれたんだ。我々の同志だよ」

ね?と視線を寄越され、俺は言葉に詰まった。
俯いた俺の肩を軽く叩いて、高千穂勲は自分についてくるように促す。俺は数本の蝋燭で視界が確保さ
れた屋敷の中を、迷い子の気分でついて行った。

「急なことだったからねぇ。ベッドの用意がないんだ。私がいつも使っている部屋のソファーなら、窮
屈な思いをしないで休めると思うんだけど、同室でもいいかな?」

案内された部屋の扉を開きながら、高千穂勲は俺を振り返った。
しかし俺は部屋に踏み入れることはせず、その場で佇んだまま言った。

「そのような気遣いは無用……です。俺は、ここでは新参者。床に転がされても文句は言わ……言いま
 せん」
「俺が文句を言うかもよ」
「っ……」

顔を覗き込まれ、手を取られた。そのまま部屋へと引きずり込まれる。

「どうぞ。ここには気安く部下たちも入れないから、寛いでいたまえ」

背後で扉の閉まる音。俺は観念して部屋の中を見回した。
バルコニーに面したベッドルーム。冬には重宝しそうな暖炉の前に、成人男性でもゆったり横になれそ
うなほど大きなソファーが一つ。その他に本棚やクローゼットが置いてあり、部屋の奥には今入ってき
たのとは違う、別の扉があった。

「先にシャワーを浴びるといい。私は部下たちと少し話があるから。あぁ、着替えはそこに入っている
 物を好きに使ってくれ」

どうやら奥の扉は風呂場に通じるものらしい。そちらを示した後、彼は部屋のクローゼットを指差した。
視線を向けて確認をすると、俺が理解をしたと思ったのか、高千穂勲は再び部屋の扉に手を掛けた。
彼が部屋を出る前に、俺は咄嗟に呼びかけていた。

「俺が!――俺が逃げると……思わないんですか……」

高千穂勲はクスリと笑い、答えた。

「私たちに危害を加えなければ、逃げてもいいよ。キミにまだ迷いがあることは知っている。私は無理
にキミを引き留めるつもりはない」

最後にもう一度、自信に満ちた笑顔を見せて彼は部屋を去った。
俺はしばらくそこに突っ立ったままだったが、ふと我に返り、シャワーを浴びることにした。
熱い湯を浴びながら、何故自分はここにいるのだろうと考えた。
あの時――高千穂勲が炎に囲まれたあの時、葵は俺の名を叫び、走れと言った。何故あの時、俺は躊躇
ったのか。
高千穂勲の唱えた最終戦争説に動揺していたのは否めない。
“世界のどの国よりも強い力を手に入れられれば、日本は世界一になれる”
御国のために尽くせ。そう教えられて育ったせいか、日本を世界一に導くこの思想に俺は共感した。
世界を変えると予言された人物は二人。
『その二人になってみたいと思わないか?』
高千穂勲の差し出した手が、本来進むべきだった自分の道に引き戻してくれる光に見えた。
桜井機関にいることに疑問を覚えていた時分、絶妙とも言えるタイミングだった。
預言者警護のため、軍服に袖を通した時、なんとも言えない高揚を感じた。擬似的に、目指していた軍
人の夢を体験した気分だった。
桜井機関の人間として、スパイ活動をするのが自分の役目。そう言い聞かせて、押し込めていた軍人と
して生きたいという欲求が疼いた。
高千穂勲について行けば、自分はもう一度、あの軍服に袖を通せる。御国のために働ける。
高千穂勲の考えこそが、真に日本のためなのだ。
迷いを断ち切る。そう心に決めた時、頭の中に蘇る声があった。
『そうやって一つの目線からしか考えられない奴が道を踏み外した時のほうが、恐ろしい』
上海から北へ。リットン調査団の面々が誘拐された現場へ向かう途中、葵が言った言葉だ。
葵は、高千穂勲の唱える最終戦争説に異議を唱えるのだろうか。

「(きっと、反論するだろうな……)」

考えなくてもわかる。
俺たちの意見はことごとく対立する。心は惹かれ合い、互いの体温も知っているのに、性格のせいか言
い合いの止まない毎日だった。
それでも、葵を嫌いにはならなかった。衝突して、喧嘩して、それでよかった。
『こんなに好きなのに、やっぱり俺とお前は別々の人間なんだな』
葵が笑いながら言ったのを、今でも覚えている。確か、初めて体を重ねた時だった。

「(――俺は、葵の制止を聞いていながら、高千穂勲の元へ跳んだ)」

炎の向こうに見えた葵の表情は、愕然としていた。高千穂勲に肩を貸しながら、俺は唇を噛みしめた。
別々の考え方を持った別々の人間。わかっていたからこそ、惹かれていた。決して敵対しようと思った
訳ではない。
しかし、葵は裏切られたと思っただろう。葵や、雪菜や棗は。
『何故なんだ葛ぁっ……!!』
夜闇に響いた葵の声は、俺の耳にも届いていた。
その声が、シャワーの水音よりも強く耳にこびりついている。

「(――これが……。高千穂勲の唱える日本の未来こそが、俺の理想とする日本なんだ)」

胸に苦いものを抱えながら、迷いを断ち切るように頭を振った。
シャワーを止め、濡れた身体を拭くと、借りた着物の袖に腕を通す。
濃紺の浴衣に着替え、部屋に戻ったが、高千穂勲はまだ戻っていなかった。
ソファーに腰を下ろすと、包み込まれるような座り心地に瞼が重くなってきた。体をソファーに深く沈
め、目を閉じる。

「(そういえば……無駄に抱きついてくる奴だったな……)」

息が苦しい、と毎回怒鳴りつけたくなるほど、ぎゅっと抱き締められていた。
『お前の視界に俺しかいなければ、お前は俺以外の場所には跳べないからな』
そう言って頭を肩に押し付けられるか、口づけしそうなほど近くに顔を寄せてきた。
鳶色の瞳の中に自分を見る刹那の時間。俺は三好葵という男に囚われる。
『こんなにくっついていても、お前は目さえ見えていれば、いつでも俺の腕の中から消えていなくなっ
 ちまうんだよな』
『そうだ。そういう能力だからな』
至近距離にある顔に早くなる鼓動を押さえつけ、平然を装って答えた。途端に葵が不機嫌になったのが
わかる。
『――お前を繋ぎ留めておけるような力がよかったぜ』
『そんなに誰かを支配していたいのか。独占国家の権力者じゃあるまいし……』
『…………』
鳶色の瞳が無言の訴えを向けてくる。俺は心の内でため息をついて、ほんの少し――ほとんど唇が触れ
合うところまで――顔を近づけた。
『冗談だ』
『――アンタの冗談はきっついんだよ……』
口づけされ、舌を差し込まれる。
不埒な行為だと反発していたことすら、いつの間にか許容するようになっていた。

「(――俺は視界を奪われておらずとも、あの男に囚われていたのかもしれない……)」

葵に「葛」と呼ばれることがいつからか嬉しかった。
“伊波葛”という名前は望んで与えられた名前ではない。ましてや他人との関わりを持つことを疎んで
いたうちは、煩わしいばかりだった。
それが、いつからか期待に、喜びに、安堵に変わっている。それらはすべて三好葵という男のせい。
『葛!走れ!!』
炎が起こったあの時、葵にこの名を呼ばれた。

「(だが、俺は……)」

走れなかった。縫いつけられたようにその場から動けなくなった。
それは、別の男の瞳を思い出してしまったから。炎に囲まれても悠然と佇んでいた男。
昼間、高千穂勲と視線を合わせた時、体の自由は奪われ、咄嗟に力も使えなくなった。
そしてあの時、葵の声に惹かれながら、高千穂勲から視線が逸らせなくなっていた。

俺は高千穂勲に囚われた。

「(葵……俺は、もう……)」

――俺はもう……お前の瞳に囚われることは……



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じつはあまり戦争論とか、勲お兄様の言ったことがよく理解できていない作者(笑)
一応、石原さんの『最終/戦争/説』は目を通したんだけどね……。読んでるときはわかったつもりにな
っていても、いざそれをネタに使おうとすると疑問符ばかりが頭を巡るんだ。


2010/08/01

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