恋の助走 3 パーティーが終わり、葛は着物のまま、前庭の噴水の傍のベンチに座っていた。 屋敷からは噴水が邪魔になって見えないだろうし、帰宅する客たちも光の届かない場所にいる人間が誰 かはわからない筈だ。 「お疲れさん」 顔を上げると葵が立っていた。妙に上機嫌に見える。 「芝村氏は?」 「最後に主催者へ挨拶に行った。二人きりで話がしたいと言ったので俺は出てきたんだ」 「そいつはよかったな」 ニヤリと笑って、葛の横に腰かける葵。 夜風が気持ち良く、密室に押し込まれ疲弊していた葛は長い髪を揺らしながら涼んでいると、ふいにそ の髪を葵に掬い取られた。 葵の指先を追って視線を移す。漆黒の瞳を向けた先で、葵は微かに笑みを浮かべていた。 「どうした」 「あぁ……。“綺麗だな”と思って」 葵の手の平が頬に触れる。葛は視線を逸らさず葵を見つめ続けた。 「その台詞、パーティー会場で散々言われて慣れた。揶喩おうとしても無駄だ」 すると葵は困った風に眉尻を下げ、手を下ろす。 「本心、なんだけどな……。どうしてこういう場面で素直に受け取ってくれないのかね、アンタは」 「お前の普段の行いが悪いせいだろう」 葛がにべもなく言い放つので、葵は居心地悪そうに頭を掻いた。 「そんなに俺って悪者かぁ……?」 「自分の胸に聞いてみろ」 「お前は答えてくれないのかよ」 葛は何も言わずに視線を元に戻す。臥せたまつ毛が思ったよりも長く影を落とし、葵は無意識のうちに 見惚れていた。 瑠璃色の着物が夜闇に溶けて儚く見える。風と共に揺れる簪の飾りは噴水の飛沫のよう。ぼんやり浮か び上がる葛の白い肌は透けて、消えてしまいそうだった。 「葛――」 葵に呼ばれ、葛は再び葵の方に顔を向ける。話をする時は相手を見て話をする。葵は葛のこういう律義 なところが好きだ。 「口紅が落ちてきてる。塗り直してやろうか?」 「いい。もう後は芝村邸に帰るだけだ。他のパーティー客に会うこともない。必要ない」 「それもそうだ」 葵は雪菜から預かっていた化粧道具を取り出しかけたが、葛の言うことに納得し、再び元に戻す。 葛もまた視線を戻しかけ、ふいに葵の腕が伸びてきたと思ったら、唐突にその腕に抱き込まれ、口づけ された。 始めは目を白黒させていたが、葵の促すような目線にゆっくりと瞼を下ろした。 「ん……――」 いつの間にか顎を支えられ、探るように舌を差し込まれる。絡め合った熱に眉を潜めた。 「(熱い……)」 名残惜しげに離れていく葵。後を追いそうになって、自分を戒めた。 舌の上に残った味は酒の味だった。 葛は至近距離で微笑む葵を、渾身の力で睨み付けた。 「葵、酒を飲んだのか」 「んー、ちょびっと?」 疑問形でおちゃらける葵を更に強く睨む。 「巫山戯るな。任務中だぞ」 「わかってるよ。だから酔っ払わない程度に……」 「どこがだ。女装をしてはいるが俺は男だ。素面で男に口づけをする奴がいるか」 「前科一ですけど」 ぬけぬけと言う葵。葛は思わず言葉に詰まった。 「あ、あれは口づけではないと、お前が言ったじゃないか……」 言い淀んだことで自分が動揺していることに気づかされる。 何も言えなくなって黙っていると、葵は微笑んで、再び葛に触れるようなキスをした。 「いいじゃないか。それに、任務はもうほとんど終わったようなもんだろ」 そう言って葛を腕に抱く。葛は身動き一つせず、葵の腕に抱かれている。 しばらく噴水の音だけがその場を支配する時間が続いた。 ◇ 葛の肩に顎を乗せ、背中に腕をまわしたまま、葵はうっすらと目蓋を開いた。 葛の体に触れていることがこんなにも心地よい。 こんな行動を取ったのは、すべてが酒のせいではない。 あの芝村という男が葛の肩を抱き寄せた時、果ては公然とキスを迫った時、無性に腹が立った。 だからといって、酒の勢いでこうしているわけでもない。 酒はただの誤魔化しだ。酔ったフリをすれば、葛を抱きしめることも、キスをすることもできると思っ た。 “彼女”のことを忘れた訳じゃない。それどころか、未だ夢に見て、目を覚ませば涙している。 一人の女性を想いながら、仲間である筈の男を抱きしめる自分はいったいなんなのだろうか。 「(コイツも、どういうつもりなんだろうな)」 正直なところ、拒まれると思っていた。 着物を着ているとは言え、抵抗すれば簡単に逃れられただろうし、ましてや葛は瞬間移動の能力者だ。 いつでも逃げられる筈である。 だが、いま自分の腕の中に葛はいる。女装をした葛が、自分の腕の中に。 葵には葛の本心がわからなかった。そして、自分がなぜこんな子どもじみた欲を抱いているのかもわか らない。 母親から引き離されて人肌恋しい子どもじゃあるまいし、彼を独占したいという欲求に戸惑いすら覚え た。 「(もしかして……)」 自分は、このパートナーとも言える男が、手の届かない所へ行くことを恐れているのか。 葛にこの力がある限り、どんなに強く抱きしめても、幻のように消えてしまうかもしれない。 だからこうして触れていられることがたまらなく嬉しくて、そして少し不安になる。 何か、決して離れない絆のようなものが欲しい。そう思った。 そもそも、何故そう思うのか、想いの根底には気づけなかった。 ◇ いつもと様子が違うと思ったのは、髪型や服装のせいだと思っていた。 けれど、簪を直してもらった後の葵の笑み。見たことのない笑みに、これは自分の知っている三好葵で はないと悟った。 そして今はこうして、到底男にするとは思えない行為を強いてくる。 「(それを甘んじて受けている俺もどうかしているがな……)」 決して強くはしない。包み込み、離さないように抱かれて、葛は薄く目を開いた。 「(葵は誰かの影を、俺に重ねて見ている)」 飄々とした雰囲気に隠しきれない切々とした想い。それをフォローしてやるのも仕事上のパートナーた る者の務めだ。 しかし口づけをする前の葵はいつもの葵だった。例え酒に酔っていたとしても、葵は葛を“男”だと認 識していた。 けれどそう思わなければ、この異常な状況を受け入れている自分に説明がつかなかった。ましてや、こ うして抱かれていることが心地よいと思っていることなど、認めたくなかった。 だから当然、いつの間にか葵に対して好意を抱いていたのだと、気づきたくもなかったし、知られたく もなかった。 「(俺たちは桜井機関の諜報員だ。この関係に変化など必要ない)」 ――そうだろう、葵……? 自分の気持ちを押し込めるように瞼を閉じて、唇で葵の肩に触れた。 どうせ誰にも気づかれず、明日には自分が洗い流すことになる。 葵の肩には、意味を為さない言葉のように、歪な形の口紅の跡が残った。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- もしかしてこれは、葛さんのほうが先に自覚しちゃった感じですかね(笑) うーん、想定外。二人とも同時くらいだと思ってたのに。 しかし、それにしても我ながら、口紅のキスマークは即席三分のアイディアだけどなかなかだと思っ てます(苦笑) なんかもうこれでおしまいでいいかな、とか思ってたりしますが、まだ芝村との一悶着がありますの で、もうしばらくお付き合いください。 2010/07/26 |