恋の助走 2 準備を終え、前庭に向かうが、慣れない着物に度々躓いてしまう。見かねた葵にエスコートされて、コ ツを掴んだところで前庭に着く。そこには既に移動用の車が用意されていた。その前で芝村氏を待つ。 暫くして芝村氏は現れた。彼は出会った時と同様に、俺を上から下まで舐めるように見た後、言う。 「本物の女を用意したのかと思ったぞ。だが、確かに先程の男のようだな」 髪を梳くついでにスルリと首筋を撫でられ、思わず退いた。だが、芝村は意に介した様子もなく、葵の 方へと視線を向けた。 「――馬子にも衣装だな」 「……どうも」 葵は笑みを浮かべいたが、車の扉を開いて芝村を誘導する間に、顔を背けて小さく悪態をついていた。 「ほら、葛も……じゃなくて、柚姫も乗れよ」 「あ、あぁ……」 俺は少し迷った後、葵にだけ聞こえるように言う。 「俺は、似合うと思うぞ。そういう格好も」 葵は驚いたように目を丸くしていたが、やがて「ありがとう」と笑った。 肩を叩いて「耐えろよ」と告げて車に乗り込む。車外で葵が浮かべた苦笑は、「お前もな」と言ってい るように見えた。 会場に着くと、意外にも芝村篤という男は著名人との面識の多い男だということがわかった。だがしか し、対する人達は一様に芝村に良い印象は持っていないようで、葵がこっそりとそのうちの一人に話を 求めに行った。 その間、俺は芝村の横で愛想笑いを続ける。隙があれば指を絡めたり、肩に手をまわしてくる芝村をの らりくらりとやり過ごしていた。 「いやぁ、本当にお美しいお嬢さんだ。お声を拝聴できないのがたいへん残念です」 少し酒の入った様子の御人がふいにそう言った。周りにいた将校たちも同様に頷く。 俺は少し困ったように笑って、首を傾けた。自分も話せないことが残念だと示すように。 「控えめなところがまた可憐でよろしい」 「(ここの御人方の目は節穴らしいな)」 俺は内心で深くため息をつく。会場に着いた当初はいつ男であることがバレるかと気が気でなかった が、パーティー開始から一時間が経った今も、誰かに女装を指摘される様子もない。 パーティーの参加者から賛辞を受ける度に、苦笑いが漏れた。もちろんバレないように普通の笑みにす り替えたが。 しかし、周囲から賛美される度に隣にいる芝村が調子に乗っていくのがわかった。時間が経つにつれ て、スキンシップが過度になっていくのだ。しかもあからさまな拒絶もものともしない。 腰に手をまわしてグイと引き寄せられ、咄嗟に芝村の胸に手をついて拒絶するも、奴は笑うばかりで相 手にしない。 「芝村殿、お嬢さんは嫌がっているようだが……」 「いやいや、恥ずかしがっているのですよ。柚姫はこの通り、照れ屋ですから」 「(本気で拒絶しているんだ……!!)」 女性の力加減というものがわからなくて、どのくらい強い力で押し退けてよいのかわからず、中途半端 な拒絶しかできない。 ひどくもどかしくて、葵の姿を探した。声を出せないこの状況では、第三者に助けを求めるしかないと 思った。 「(葵は……)」 視線だけで周囲を探すが、目当ての姿を見つける前に、すぐ傍までに芝村の顔が近づいてきて、一瞬に して頭も体も硬直した。 「恥ずかしがることはない。こんなことは二人きりの時にいつもしているだろう……?」 「(なんの話だッ!!)」 どうやら芝村の頭の中では、俺を婚約者として想定した妄想が完璧に成立してしまっているらしい。 周囲の酔っ払いも、芝村よりも地位の低い軍人も当てになりそうにない。俺は必死に葵を探した。この ままでは、芝村に口づけまでされてしまいそうだ。 興奮しきった芝村の目はまさにギラギラ光っている。顔を背けると熱い呼吸が頬に触れ、嫌悪感が限界 に達した。 「柚姫、目を閉じろ」 芝村の言葉に頭が真っ白になった。 「……っ、この……!!」 「うわぁっ!」 「なにっ!?」 渾身の力で芝村を突き飛ばそうとした時、顔に冷たい飛沫がかかった。驚いて視線を巡らせると、目の 前にいた芝村が頭からずぶ濡れになっていた。 「貴様、何をしているんだ」 「どうもすみません……」 芝村の言葉に悪びれた様子もなく、笑って頭を下げたのは空のグラスを持った葵だった。 「ご主人様と柚姫嬢にと飲み物を戴いたので持って来たんですが、つまずいてしまって……」 「気をつけろ!」 「はい、すいません」 ケロリとした表情で言う葵。今のは明らかに嘘だろう。グラスに入っていたらしい液体は無色透明で、 ただの水であったことはすぐにわかる。 だが、呆気に取られていた俺は、葵に手を取られてハッとした。 「柚姫嬢、顔色が優れませんね。少し外でお休みになられてはいかがですか?」 返事に戸惑っている間に、葵は俺の手を引いてスタスタと歩き始めてしまった。芝村が阻止する隙も与 えない。 あっという間にパーティーホールを抜け出し、人通りのない廊下に連れ出された。そのまま少し屋敷内 を歩き、人の気配のない場所まで来ると椅子に座るよう促された。 「大丈夫か?」 いつの間に手に入れたのか、葵は水の入ったグラスを渡しながら言う。俺はそれを受け取り、渇いた喉 を潤してから椅子の横に立つ葵を見上げた。 「貴様、馬鹿か……?なぜあんな真似をした」 「ひどい言われようだな。俺はアンタが助けを求めている風に見えたからああして救いの手を……」 「単に芝村氏に憂さ晴らしがしたかっただけだろう」 葵に図星を指摘され、動揺しながらも言い返す。葵は苦笑して頭を掻くと、呟くように「それもあるけ ど……」と言った。 「俺は本当にお前を心配して来たんだぜ」 深く息を吐きながら、腰を屈めた葵は俺の頬に手の甲を当てる。 「顔の色、普段より白く見える。どっか無理してんじゃねぇか?」 「雪菜にしてもらった化粧のせいじゃないか?」 「にしては、呼吸が苦しそうだぜ」 「っ……」 またしても図星だ。少し前から着物に動きを制限されることが苦しくなってきていた。 「帯を緩めてみるか?少しはマシになると思うんだが……」 「――出来るのか?」 「任しとけって」 葵は立ち上がると、着物の帯に手を差し込んでごそごそと始める。 「よし、少し踏ん張れよ。ちょっと力入れるからな」 頷くと、葵は「せぇのっ!」と言って帯をグイと引っ張った。 「どうだ?」 深呼吸してみると、先ほどよりも酸素が深く肺に届くようになった気がした。 「……少し、楽になった気がする」 「そうか。よかった」 葵がホッとしたように笑う。 やはり礼を述べるべきだろう。俺が口を開こうとした時、葵が「ちょっと待った」と手で制してきた。 「今ので簪がズレたみたいだ。直してやるからじっとしてろよ」 「あ、あぁ……」 礼を言うタイミングを逃し、言われた通りに大人しくしている。頭を動かさないようじっとしている が、左右から具合を見ていた葵が「ちょっとごめん」と言って、正面から手をまわしてきた時は思わず 視線を下げてしまった。 まるで口づけをするように近い葵の顔に、鼓動が早くなる。 おそらく、ついさっき芝村に迫られたことが影響しているのだと思う。グラスを持った手が震えた。 「よし、これでいいぞ。元通り美人になったぜ」 目の前で太陽のように笑う男に、何故か顔が熱くなった。 「どうした。なぁに照れてるんだよ」 「うるさい……」 顔を覗き込もうとする葵から目を逸らし、床を睨みつける。今は赤面した顔を見られたくなかった。 きっと揶喩われるだけだ。 ふいに、廊下の向こうから足音がしたと思うと、パーティーの給仕が姿を現した。 「芝村柚姫さま。芝村篤さまがお呼びです」 俺はコクリと首を傾けて了解の意を示す。 「柚姫嬢は俺がちゃんとお連れする。ありがとう。仕事に戻ってくれ」 葵は馴れた様子で給仕を下がらせ、苦い笑みを浮かべて俺を見た。 「休憩終了、だな。あと一時間もすればパーティーもお開きになる。頑張れよ」 差し出された手を取り、椅子から立ち上がりながらため息をつく。 「お前は気楽でいいな」 元から桜井さんの策略だったとはいえ、女の振りをしなくて済んだ葵を羨むように見た。すると葵の視 線と真っ向からかち合った。 「――そうでもないさ」 いつもと違う様子の葵に視線を逸らせなくなる。 何か言わなくては……。そう思って咄嗟に「お前はこういうパーティーに慣れているように見える」と 言った。しかしそれもまた地雷だったらしい。 葵は遠い目をしたまま微笑んで、「まぁな」と答える。 「ヨーロッパに留学してた頃はこういうパーティーはしょっちゅうだったし」 はぐらかすような笑み。それを追及するだけの言葉が見つからず、俺は納得した振りをした。 葵もまた、俺が言いきれない言葉を持っているとわかっていながら無理矢理に話題を終わらせた。 パーティー会場から楽団の演奏する音楽がはっきりと聞き取れる辺りまで戻ってきたところで、無意識 にため息が漏れる。 それに気づいた葵がトントンと肩を叩いた。 「ヤバい感じになったら助けてやる。ちゃんと見守っててやるから安心しな」 その笑みはいつもの太陽の笑みだった。心のどこかに安堵を感じ、軽く拳を握った。 「頼んだぞ」 コツン、と拳で肩を押し返す。 「おぅ」 笑った葵に見送られて、俺は再びパーティー会場に戻った。 ----------------------------------------------------------------------------------------------- なんか……、他の文字書きさんの書いた素敵な文章を読んだ後だと、この書き方がすごく読みづらく感 じる。 取り敢えず今回の見所は、柚姫嬢、もとい葛さんを守る葵さんと戸惑う葛さんでした。 2010/07/25 |