夏の陰画 怪我の巧妙 3 今日は例の取引の日。 葛が夕飯の時間になっても姿を見せないので、俺は二階の部屋を覗きに行く。 案の定、部屋に奴の姿はなかった。 「葛サン、いたか?」 「いや、いつの間にか出かけてたみたいだな」 階下に下りると、既に風蘭はテーブルに料理を広げ終わっていた。少女は腰に手を当てて口を曲げる。 「せっかく風蘭が丹精込めて持ってきた包子を二回もすっぽかすとは、葛サンもいい度胸ネ!!」 「本当にな」 四日前と同じように、無関心を装ってみたものの、やはり心境は穏やかではなかった。 風蘭も、無思慮に苛立っていることができず、肩を落とすと不安そうな声で言った。 「葵サン……。葛サン、また誘拐されたりしてないよナ?暗がりに連れ込まれて、あんなことやこんな こと、されてないよナ!?」 一瞬だけ、手に力がこもった。寸でのところで表情には出なかったが、心を渦巻く嫌な予感がやけに ざわついた。 「葵サン……!」 「そんな声出すなって」 俺は風蘭の頭にポン、と手を置くと、微笑みかける。 「心配すんなよ。ああ見えて、葛は腕っぷしも強いんだ。この間は、女性を人質に取られていたから 捕まったけど、基本的には一人でどうこうできるくらい強いんだぜ。それに、一応アイツも男なんだか ら、暗がりに連れ込まれて云々ってのは、ないと思うけどな」 そうは言うものの、風蘭の表情は明るくならない。 俺は苦笑して言った。 「わかったよ。それじゃ、ちょっと辺りを探してくる。留守番頼んでいいか?」 「さすが葵サン!男前ネ!留守は風蘭に任せるがヨシ!大船に乗ったつもりで行ってラッシャイ!」 今まで泣き出しそうなほど、瞳をうるませていた少女は太陽のような笑顔で手を振った。思わず顔が引 きつる。 「まさか、初めから俺に探しに行かせようと……まぁ、いいか。それじゃ行ってくる」 俺は写真館を出ると、例の取引現場がある港の方へ足を向けた。 時計を見ると、既に取引の時間から一時間以上過ぎている。差押えも一通り終えていることだろう。 葛は西尾に会いに行ったに違いない。現場には棗がいる筈だから巻き込まれることはないと思うが、 やはり心配だ。 「葛……」 焦れる思いに歯噛みした。歩く速度を速める。 すると、道の先から見覚えのある黒髪とスーツの男が歩いてくるのが見えた。 ハッとすると同時に俺は駆け出していた。 「おい、葛!」 「っ、葵……!?」 俺を見つけるやいなや、葛は気まずそうに目を背けた。 俺は周囲に人の目がないことを確認してから、葛に問いかけた。 「取引現場に行っていたのか」 葛は俺と目を合わせることなく、首を振る。いつも堂々と前を向いて物を言う葛らしからぬ態度に、無 意識に彼に向ける視線は強くなった。ただ、こちらを見てほしいという思いから。 しかし、葛は顔を上げず、淡々と答える。 「取引現場には行っていない。アイツなら――西尾なら、取引が失敗した場合、川に飛び込むのもいと わないと思って、現場の対岸で待機していた」 葛は無意識だろうが、西尾と近しい関係だったことを匂わせる言動をされて、何故か腹が立った。 「似たようなもんじゃないか」 ぶっきらぼうにそう言うと、葛の口には苦い笑みが浮かぶ。どこか自嘲的だ。 「棗には見つかっていたかもしれないな……。だが、もう二度と西尾を追ったりはしない。俺は桜井機 関を裏切るために動いていた訳じゃないんだ」 「わかってたよ、そんなこと」 俺の言葉に、ようやく葛が顔を上げた。最近、まともに見られなかった漆黒の瞳を正面から見られて、 心が緩む。 「出会ってからどれだけ経ったと思っているんだ?お前が人を裏切る人間か、そうじゃないかぐらい わかってるさ」 どうやら俺は顔も知らない男に嫉妬しているらしい。これではさっきの葛の発言につっかかってるみた いだ。我ながら馬鹿馬鹿しい。 街灯の明かりからは離れていたため、数日経った怪我の痕はわかりにくい。だが、気にかけていた俺に はまだはっきりとわかる。とはいえ、どうやら新しい怪我は負っていないようだ。 「風蘭が心配してたぜ。――それと一応、俺もな」 安堵の息をつく。それまで強ばっていた顔から力が抜けた。自然と笑みの形になる。 「なぜ……」 ひどく驚いた様子で葛が呟いた。 「“なぜ”ってお前……。同居人の心配すんのがおかしいことかよ」 その時、風蘭曰く“細い目”が大きく見開かれる。 「どうした。そんなに意外だったか?」 「いや、信頼は……失ったものだと思っていた」 茫然と呟く葛に、俺は内心で呆れながらも、真剣味を帯びた視線で答えた。 「それは“お前”が“俺”を信頼してくれていないんだろう?」 俺がそう言った瞬間、葛は切なげに目を細め、顔を背けた。ここ数日でよく見た表情だ。そうさせたい 訳じゃないのに、奴は辛そうに唇を引き結ぶ。 と、ふいに口元を押さえて苦痛の声を漏らした。見ると、殴られて切れた唇の端に血が滲んでいる。 「あー、傷が開いたのか?そういや、飯食ってる時も痛そうにしてたもんな」 見せてみろよ、と口を押さえている葛の手に触れた。 「つっ……」 「あっ、悪い!」 触れた場所が悪く、どうやら縄で擦れて痣になっていた部分を掴んでしまったようだ。葛は痛む手を庇 いながら「大丈夫だ」と言った。 裾から見える縄の痕は赤黒く、快方に向かっている様子はまったくない。無理をしている証拠だ。 俺は眉をしかめて、葛の手を取った。もちろん、縄の痕は避けて。 葛は驚いたように俺を見る。しかし、俺は気づかないフリをして、葛の手に顔を近づけた。 「火傷も治ってないじゃないか。それどころか、無理して包帯外したせいで、水脹れが潰れちまって るし」 「自業自得だ。放っておいてくれ」 「そいつはできない相談だ」 俺は懐からハンカチを取り出すと、葛の右手に巻く。 「言っただろ。心配してんだって」 俺は双黒の瞳を覗き込む。無言だった葛は小さく息を呑んだ。 「一人で無理するなよ。仲間を頼れって。それとも、俺じゃ頼りないか……?」 「そんなことは――」 「なら、頼れよ。俺はいつでも大歓迎だ」 微笑みかけると、それまで合わせていた視線が逸らされ、握っていた手を引き戻された。 「(嫌、って訳じゃねぇよな。まったく、素直じゃないんだから……)」 胸の内で苦笑する。ふいに葛の口元に視線が吸い寄せられた。 傷が開き、滲んだ血が唇に赤々と色を添えている。 「(痛そう……)」 俺は葛の顎を取ると、顔を寄せた。 口づけをするように、葛の唇を濡らしていた血を舐め取る。じわりと、口の中に血の味が広がった。 「帰ったらちゃんと消毒して、手当てしなきゃな」 そう言って葛を見遣ると、奴は硬直したまま、俺の顔を凝視していた。 「葵……」 「え?」 葛は上擦った声で俺の名前を呼び、ハッとして口元を押さえる。 何をしているんだ?と疑問に思うと同時に、自分のしたことの異常さにようやく気づいた。 「あ、あああのな!ち、違うんだ!誤解すんなよ!?血、血がな!?こう、痛そうだなーって思ったら身体 が勝手に……!」 顔が赤くなっているのは想像できた。俺はみっともなく取り乱し、狼狽えている。とてつもなく恥ずか しくなってきた。 「ご、誤解、すんなよ……?」 「――わかっている」 奴も照れたり怒ったりするのかと思いきや、いつもと変わらず、淡々とした口調で答えられた。どうや ら俺が慌てふためく様子を見て、落ち着きを取り戻したらしい。 俺はガシガシと髪をかき混ぜると、無理矢理立ち直る。 「――帰るか」 俺は葛の返事を待たずに、先に立って歩き出した。いたたまれなかったのだ。 すぐに葛の足音が後に続く。 隣に並んだ葛の表情を盗み見ようとしたが、いつものような無表情で、何を考えているのか読み取れな かった。 ◇◆◇ 時間は三十分ほど前に遡る。 俺は取引現場の対岸にある土手に立っていた。ただ昔の友人ともう一度会うためだけに。 そして西尾は現れた。俺は「覚えてないか」と尋ねた。 奴はそれに対して何も答えなかったが、目を見開き、口の形が自分の名前を紡いだのは見て取れた。 西尾は俺を覚えていた。そして自分のしたこともまた覚えていた。 苦い顔をして、奴は「俺は先を急いでいる」と言った。 自分の知っている西尾という男と、いま目の前にいる人物が重なって見え、口の端に笑みが浮かんだ。 「そうだな。お前は昔からそうだった……」 俺たちの関係はすれ違ってしまったが、人間という部分は何も変わっていなかった。それがとても嬉し く、そして寂しかった。 俺の横をすり抜けていく西尾を、振り返ることはしなかった。ただ一言、伝えておきたいことがあっ た。 「西尾」 遠い背後で足音が止まる。 「俺はもう一度、お前と会いたかったんだ」 あの町外れの小屋で起きたこと。そのことを恨んではいない、と。 まだお前を親友だと思っている、と。 「俺もだ。また会えてよかった」 声に笑みが含まれていた。俺はまた昔のような関係に戻れたのだと錯覚した。 実際は、立場も志も違う、互いに遠い存在になってしまっていたのだが、今この瞬間は気づきたくな かった。 最後にもう一度、姿が見たくてゆっくりと振り返った。振り返っててから後悔する。過去と折り合いを つける為にここまで来たというのに、西尾を追ってしまってはすべて無駄になってしまう。 しかし、街灯もない土手には既に人の姿はなく、ただ蛍だけが悠々と飛び回っていた。 そしてその時、もう二度と会えはしないと、漠然とした予感を感じていた。 自分の能力の制約の一つになっている視界。――そこに西尾の姿がなかったことで、自分は二度と彼に 近づくことはできないのだと感じた。近づく必要もなくなったのだと。 夏の夜風が頬を撫でていく。 追いかける背を失って、しばらくその場に佇んでいた。 --------------------------------------------------------------------------------------------- 裏切るつもりはなくても、結果的に裏切りになってしまったことはありますけどねー(既に最終回放映済) それにしても、葛さんは能力の制限から視界に少し敏感になってるんじゃないかという妄想。 今後、視界ネタはよく使います(笑) 2010/07/04 |