君の泣く声が聞こえたから 4 翌朝、俺が部屋から出ていくと、まだ岸田さんも三好さんも起きてきていなかった。 取り敢えず、昨日習った通りにポットに水を入れて湯沸かし器に掛けて待ってみる。 ポットの中の水が沸騰していく様を観察していると、ふいに廊下から音がしたのでリビングから顔を覗か せた。すると岸田さんの寝室の扉が開いて何故か三好さんが出てくる。俺に気づいた彼は軽く会釈するが、 手にした小さな機械に意識を注いでいるようだ。 そして彼はワイシャツの襟をはだけたままで携帯電話を手に、自分の寝室へとすぐに入って行ってしまう。 どうやら仕事の電話らしい。 そうしてしばらく待っていると、今度こそ部屋の主が寝室から現れた。岸田さんは少し具合悪そうにうつ 向き加減で部屋から出てくる。 「おはようございます」 「っ!?」 俺が声を掛けると、岸田さんは心底驚いた表情をして俺を見た。それから「あぁ……。おはよう」と仕切 り直すように言う。 まさか俺が既に起きていると思わなかったのだろう。ひょっとしたら俺がいることを忘れていたのかもし れない。そう思えるほどに部屋から出てきた岸田さんは無防備な表情をしていた。 「岸田さん、しっかりしてください。出社しますよ」 いつの間にか、電話が終わったらしい三好さんが岸田さんの後ろにいた。 岸田さんはすっかり昨日までの様子を取り戻し、三好さんの胸を押して遠ざけながら振り返る。 「出社……?今日までは自宅からのやり取りでなんとかなった筈だろう」 岸田さんの眉間には深いしわが刻まれている。その視線を受けて三好さんはため息をつきながら首を横に 振った。 「田藤から電話で、どうしてもウチに依頼したいと、かなり熱烈なアピールをかけてくるクライアントが いて判断に困っていると。仕方ないから直に話を聞くことになりました」 「今受け負ってる案件が順調にいくようなら問題ないが……」 顎に手を当て、スケジュールを思い浮かべているのだろう。探るように言う岸田さん。 「不安要素が残るので、岸田さんも同席してください。アンタの力が必要だ」 「わかった。朝食を取ったらすぐに出よう」 「そうですね」 頷く三好さん。 岸田さんは俺の方を見て、申し訳ないと謝る。 「聞いてのとおりだ。悪いが、本家に連絡を取るのは帰ってきてからになってしまうが……」 「仕方ないですよ。むしろ俺はお世話になっている身なんだから、お二人の都合を優先してください」 俺が笑うと、岸田さんはもう一度「すまない」と謝った。 「なるべく早く帰ってくる。それまで暇だろうから、街を見てきたらどうだろう。もちろん、いくらか金 も渡すから、好きに見物してくるといい」 「そんな……、悪いです」 「気にするな。なにも大金を渡そうというわけじゃないんだから」 そう言って、岸田さんが財布から取り出したのは一枚の紙幣。見たことのない紙幣だが、日本の札である らしいことはわかった。そして金額を見て、俺は一瞬、気絶しそうになった。 「いちま……っ!?き、岸田さんっ!?大金じゃないと言いますが、これは十分に大金ですよっ!!」 「だが、観光名所に行って食事をしてくるとなると五千円では足らないだろう」 「昔よりも紙幣の価値は下がっているということだ。それほど過敏になる必要はない」 三好さんに言われ、俺はなんとか落ち着きを取り戻す。未来の世界は俺の柔軟な感覚をもってしても未だ 謎が多い。 「……取り乱してすみません。それじゃお言葉に甘えて、ちょうだいします」 俺が生きてきた時代とは価値観が変わってきていると理解はした。理解はしたが、さすがの俺も壱萬円の 価値まるで御上からお言葉を頂戴する武士みたいにへりくだって一枚のお札を受け取る。 財布だけはジャケットのポケットに入れてあったので、俺は自分の財布に大切にこの時代のお金をしまう。 朝食を済ませると、二人は手早く身支度をして、俺を連れてマンションを出た。 オフィスのあるビルまで共に行き、そこで夕方5時に待ち合わせをする。駅のある方角を聞き、俺は不審 者と間違われないようになんとか好奇心を抑えつつ歩き出した。 これでも見知らぬ土地を歩くのは経験豊富なので、迷ってもなんとかなる気はしたのだが、いかんせん時 代の違いが自信をなくす。 そんな俺の様子に予想がついていたのか、二人はほぼ同時に懐から名刺入れを取り出して俺に名刺を手渡 していた。「迷ったらこの電話番号に電話しろ」ということだ。 俺は二人からもらった名刺がポケットにあるのを確かめて、いざ観光へと出発した。 ◇ ――元の時代に戻れなかったら。 そんな不安は常に胸にうずまいていた。けれど、せっかく岸田さんと三好さんが金まで貸してくれたのだ から楽しまなければ失礼である。 とはいえ、やはり心がついていかず、午前中のうちは自分の暗い気持ちを見ぬふりをしていたがお昼を食 べた頃には観光意欲というのだろうか、高揚した気持ちはなくなっていた。見たことのない乗り物や建物 を見ても、逆に自分と世界との差を感じてしまって気分が落ち込んだ。 「(ビルとかでかい建物を巡るのはよそう……)」 遠くに見える赤いタワーも観光名所として有名だと聞いたが、今はそんなものではなく、自分の生きてき た時代に近いものが見たいと思った。 そこで俺はお寺の類なら今も昔も変わらないだろうと思い、浅草に行ってみた。 そこはすごい人の数だった。そのうえ、日本人のみならず、外国人もちらほら見かける。まるで上海にい た時のようだ。 ここならそんなに時代の差異を感じないで済みそうだ。そう思った俺は、軒を連ねる店がたくさんのまん じゅうやら焼き菓子を売っているのを見て、岸田さんや三好さんにおみやげを買っていこうと考える。 試食用にともらった小さなまんじゅうを口に放り込み、ほどよい甘さのあんこに頬の力が緩む。食べ物な ら邪魔にならないし、形にも残らないからいいだろう。 俺はそのままその店の人形焼きをおみやげ用に購入し、おまけにもらった人形焼きはジャケットのポケッ トに忍ばせた。 「(美味かったな。日本茶と合わせたら絶品だろうな)」 手にぶら下げた紙袋を眺め、未だ舌の上に残る甘みに目尻が下がった。 そういえば、葛も和菓子が好きだったな、と思い出す。彼が最も好きだったのは金鍔だったか。 意外な好物に驚いたものの、それを悪いとは思わなかった。むしろもっと早く言ってくれればよかったの にとさえ思った。 俺はポケットの上から小さな人形焼きを叩く。 「(これを食わせてやれたらよかったんだけどな……)」 きっと喜んでくれただろう。素直に口には出さないだろうが、あの整った顔が嬉しそうな表情に緩むのを 一瞬でも見られれば十分だ。 人の波から外れて、少し離れた所から行き交う人の流れを眺めた。 ――あぁ……。 こんなにも人が大勢いるのに、どうして誰も彼のいる場所を教えてくれないんだろう。元の時代に戻る方 法を教えてくれないんだろう。 そんなこと思っても仕方がないことだとわかっているのに、どうしても感傷的になってしまう。 自分は離れれば離れるほどに相手への想いを募らせてしまう質だから、どうしようもなく惨めになってし まうんだろう。 それから少し高台になっている公園へ移動して、ぼんやりと時計を眺めて過ごした。 この時計が逆回りして、元の時代に帰れればいいのに。そんなことを思いながら。 ◇ 待ち合わせの時間になって、岸田さんと三好さんと合流すると、俺たちはマンションに戻ってきた。 岸田さんは俺に東京見物はどうだったか、と尋ね、俺は、どこもすごかった、と答えた。 「そうか。それはよかった」 「はい。なんか逆にありがとうございました!って感じです」 「それはなによりだ」 岸田さんは笑っていたが、きっと彼も三好さんも、俺が強がっていたことに気づいていたと思う。それで も敢えて気づかないフリをしてくれたのは、慰めて解決できる問題ではないからだろう。 だから彼らは部屋に戻ると、土産の人形焼きを開ける前に早速岸田家の本家に連絡を取った。 俺は黙って、岸田さんが電話する様子を見守っていた。 不安と期待が胸の中を埋め尽くす。 なんの手掛かりもなかったら、俺はいつまでもこの時代に留まることになる。 ――死ぬまで元の時代に帰れない。 二度と葛に会えず、誰も俺を知らないこの土地で、俺は―― 「葛……――」 この3日間、何度も呟いた愛しい名前。用もないのに呼ぶなと咎める声は聞こえる筈もない。 岸田さんの隣にいた三好さんが俺を見る。すると彼は薄氷のような色の瞳をハッと見開いた。 「葵くん……?」 ――葵……っ!! その時、三好さんの声よりも更に遠く。俺を呼ぶ声が聞こえた気がした……。 ◇◆◇ ところどころで火の立つ墜落現場を、我ながら覚束ない足取りで歩いていく。 新型爆弾を転移させ、間髪入れずに男二人を抱えて転移した疲労が全身を重くしていた。 「っ……!」 またつま先が飛行機の残骸に引っかかり、転びそうになるのをすんでのところで踏み止まる。乱れた息を 整えて、俺は再び大きく息を吸った。 「葵ーっ!!葵ー……っ!!」 墜落しそうになった飛行機の中で、アイツは他人の命を優先して、自分でなんとか墜落の衝撃を緩和させ ると言った。「信用しろ」と言った相棒を、不安に思う気持ちがありながらも信じた。 だから飛行機が墜落し、生存の確率が限りなく低いと見える場所まで、彼の姿を探して歩いて来たのだ。 「葵ーっ!!返事をしろー!!」 虚しく響く自分の声に、足元の地面が崩落していくような気になってくる。先程からよく転びそうになる のは、疲労だけが原因ではないのかもしれない。 ――飛行機の墜落する音を森の中で聞いて、背筋が凍った。本当に無事でいられるのかと、不安が勝った。 瞬間的に“どこか安全な場所”へアイツが降りられるようにと強く祈った。―― 歩き出すと軽い貧血のような感覚に膝をついたが、それから立ち直るとまたふらつきながら彼の姿を探し た。 「どこだーっ!?葵ーっ!!」 何度呼んでも返事はない。悪い予感ばかりが頭の中を巡って、気が変になりそうだ。 自分で制御のきかなくなった感情がついに涙となって溢れ出す。 「葵ーっ!!」 渾身の力を込めて呼ぶ声が燻った煙と共に夜空に吸い込まれていく。 「葵……――」 ガクリと折れた膝に力が入らない。地面に膝をついたまま、涙だけがとめどなく溢れてくる。 ――俺の能力に回数の制限などなければ。脳裏に思い浮かべる場所へ飛べたなら。 そんなことばかりが思考を占める。 ―― 一緒に脱出できたのに。今すぐお前の傍に飛んで行くのに。 何を悔やんでも涙は止まらない。 俺は震える声で呟いた。 「あおい……――」 せめてもう一度、彼の声が聞きたいと願って――。 ◇◆◇ 目の前が白く光って、そのうち視界全部が真っ白で何も見えなくなる。わからなくなる。 前後も左右もわからなくて、自分の立ってる場所が宙に浮いているような、不安な気持ちになる感覚。 一瞬、三好さんと岸田さんの呼ぶ声が随分遠くから聞こえた。手を伸ばせば届く距離にいた筈なのに、何 メートルも遠くに聞こえた。 その代わり、聞きたくて聞きたくてしかたなかった声をさっきよりもずっと近くに聞いた。 ――葵ーっ!! すごく辛そうに聞こえた。まるで今にも泣きそうな声だ。 「葛……」 俺はぽつりと名前を呟いて目を閉じた。泣きそうな声で俺を呼ぶアイツの姿を思い浮かべて。 すぐ傍に行きたいと念じて。 フラッシュアウトしていた視界がやがて元のように辺りの風景を映すようになると、俺は呆然とした。 俺は岸田さんの家のリビングにいた筈なのに、いま目の前に広がっているのは凄惨な事故現場だ。乗用車 同士の衝突事故なんてもんじゃない。俺にはわかる。これは俺が脱出しそこねた飛行機が墜落した現場だ。 木っ破微塵になった残骸を見回して寒気を覚える。不可思議な現象が起こらなければ俺もこうなっていた のだ。 ゾッとしながら更に注意深く周囲を見渡すと、瓦礫の向こう、少し開けた場所にうずくまる人影を見つけ た。 赤銅色の軍服。その肩が小さく震えていた。 「――葛、か……?」 俺が呟くようにそう言うと、彼は両目を見開いてこちらを振り返った。溢れるほどに溜まっていた涙が雫 となって弧を描く。 「葵っ!?」 膝をついて立ち上がろうとした体がガクリと傾くのを見て、俺は慌てて瓦礫を飛び越え、両手を差し出し た。 「あぶねっ!!」 左手で葛の手首を掴み、右手を背中に回して抱き留める。ドサッともたれかかってきた葛の体重は夢では ないと訴えるようにしっかりと腕に負荷を与える。 「葛……」 腕にかかる体重をしかと噛みしめて呟く。腕の中の葛は涙を拭うこともせず、顔を真っ赤にして怒鳴った。 「馬鹿者が!!いったい今まで何処にいたんだ!?俺が何度呼んでも返事がないから、貴様……っ、死んでし まったのかと思ったんだぞ!!」 耳が壊れるかと思うほどの怒声。けれどそれが本当に戻って来れたんだという実感に変わる。 「俺にもっと強い力があればとか、せめてどこか安全な場所に落ちていてくれないかとか、本当にもう 色々なことを後悔して……っ!!」 珍しく口早にまくし立てる葛。俺は嬉しくなってさっきよりも強く葛を抱きしめた。 「ごめんな。ありがとう。ホントに、俺、すげぇ嬉しい。大好きだ、葛……!!」 「あお……っ!?くるしい……っ、離せ!!」 立つのもやっとで俺に縋りつくようにしているくせに、葛は精一杯強がって俺の腕の中で暴れた。 確かに感じる温もり、息づかい。目頭がジンと熱くなってきた。 「ちょっとぐらい我慢しろよ。な?」 「――……葵?」 俺の声が震えていたので不思議に思った葛が抵抗をやめる。そろりと顔をこちらに向けようとするので、 俺は泣き顔を見られないように葛の頭を自分の肩に押しつけた。 「――……嬉しいよ、葛。またお前に会うことができて」 「葵……。あぁ、俺もだ。俺もまたお前と会えて嬉しい」 そっと葛の手が背中に回された。俺は静かに目を閉じて、葛の心臓の音と体温だけをひたすら追っていた。 「もう二度と会えないかと思った。ずっとお前のことばっかり考えてた」 「“ずっと”?」 「あぁ、ずっとだ。この三日間、ずっと」 「三日、って……どういうことだ?」 ようやく涙のひいた俺は顔を上げて、泣き腫らした葛の顔を見つめる。 「それは追々話すよ」 にこりと微笑んで見せて、そっと顔を近づけた。葛は戸惑ったように視線を逸らした後、静かに瞼を閉じ る。俺も目を閉じて、葛の唇にキスをした。 舌を差し込み、葛の舌を絡め取る。思う存分口づけを味わってから、ゆっくりと唇を離した。 「……甘い」 葛がぽつりと呟く。俺は小さく首を傾げ、「あぁ、まんじゅう食ったからかな」と思い当たる節を口にす る。 「そんなもの、いつ食ったんだ?」 葛が眉間にしわを寄せて言った。俺は「それもまた話せば長くなる話で……」と苦笑いする。そこで俺は ハッとして、よろめく葛の体を支えてやりながらジャケットのポケットを探った。 「そうだ、これ!お前に食わせてやりたいと思ってたんだ!」 「なんだこれは?人形焼き……?」 「そう!すごく美味いんだぜ!あぁ、ここじゃなんだからどっか落ち着ける場所に行ってから食ってくれよ。 本当に美味いから!」 「……わかった」 訝しげな表情でしぶしぶ頷いた葛は、俺の渡した人形焼きを自分のポケットにしまった。 俺は葛に肩を貸してやって、二人で事故現場を後にする。 「……そうだ。なぁ、葛?」 「なんだ……?」 「お前さ、もしかして本名、“岸田”とかって言わない?」 「!なぜ知っている!?」 「“岸田琢磨”?」 「どこで聞いた!?桜井さんか!?」 「いやいや、そうじゃないんだけど……」 ――タイムスリップして、お前の子孫に助けてもらったって言ったら、コイツこのまま気絶しちまうだろ うな……。 俺たちは月のない夜の森をゆっくりと街に向かって歩いていった。 俺は元の時代に戻ってきたんだ。 「――葵」 「うん?なんだ、葛」 「そういえば、さっき、お前が言ったことに俺の答えを返していなかった気がするんだが、いま答えても いいか?」 「ん?俺なんか聞いたっけ?ま、いいや。言ってみろよ」 「…………だ」 「うん?」 「……俺も、お前が好きだ……」 「葛……っ!?」 「それだけだ」 「――……あぁ、ありがとう」 ----------------------------------------------------------------------------------------------- 長い間お待たせしました!葵さんの東京観光をどうするか悩んでいて、こんなに前作から間が開いてしま いました!本当に申し訳ありませんっ!! ともあれ、なんとかこれで完結です! と、言いつつも……。これでは21世紀の岸田さんと三好さんがおいてけぼりなので、後日談編と称しま して、短編を用意してあります。下のリンクからお読み下さいませ。 視点は岸田さん視点となっております。 ついでに、このタイムスリップの原因と、21世紀の二人がどのように葵と葛と関係しているかもあとが き部分に書いておこうかと思います。 本当に、ここまで読んで下さってありがとうございました! 2010/12/11 |