葛の天秤



預言者の泊まっている部屋の屋根の上。そこで葵と言い争い、そして能力で弾き飛ばされた。
隣の屋根に全身を強く打ちつけ、それでもなんとか気絶せずに済んだのは奇跡だった。
俺は自分の能力を使って屋根の上から下りると、すぐに陸軍指揮官の下へ走った。そこで侵入者がいたこ
とを報告する。「場所は!?」という指揮官の問いに対し、俺は預言者の部屋とは反対の方向を指さした。

『抑えられない気持ちだってある。お前にだって、覚えはあるだろう……?』

葵の言葉がわからなかったわけではない。けれど、自分に課せられた任務と、感情との板挟みにあってど
うすることもできなかった。
せめて自分の手で説得できれば。そう思ったが、それは叶わなかった。
だったら、あとは彼が無事に逃げ切れることを願うしかない。任務に背くことは許せなかったが、それよ
りも、彼が傷つく姿は見たくなかった。

預言者の姿がなくなり、屋敷中を捜索しても見つからなかったので、うまく逃げ切れたのだろうと安堵し
ていたら桜井さんに出会った。
彼を説得できなかったのは事実であり、彼が預言者を連れて逃げるために有利な情報操作をしたことも事
実だったので、俺は正直に彼を見逃したことを報告した。
当然、厳しい忠告を受けた。けれど、その後また陸軍へ協力して屋敷に戻れと言われた時は、思わず首を
傾げたい気持ちになった。
しかし戻った屋敷でその理由はすぐにわかった。警備を任された部屋に、葵が連れ出した筈の預言者の姿
があったからだ。俺は思わず目を瞠った。
預言者の手には、この屋敷に来た時にはなかったヴァイオリンのケースがあった。
それはどこかで見たことがあるような気がしてじっと眺めていると、預言者と目が合うと共にハッと思い
出した。

「葵の……」

それは彼がいつも持っていたヴァイオリンケースだ。上海からこちらに移ってくる時にも、これは手放せ
ないと言っていたので覚えている。
預言者は俺が呟いたことに気づいたのか、警備にあたっていた他の兵士に席を外すように言った。
部屋に俺と預言者、二人きりになってから、彼女はゆっくりと口を開いた。

「貴方が軍の方を誘導してくださったのね」
「いえ、私は……」

確かに誘導はしたが、こうして彼女が連れ戻されてきたということは効果がなかったということではない
か。
俺が言葉を濁していると、彼女はにっこりと微笑んで言った。

「ありがとうございます。おかげで、ずっと彼に伝えたかったことを伝えることができました。本当にあ
 りがとう」

俺は僅かに眉をひそめる。すると彼女はこう言った。

「私は自らの意志でここに戻ってきました。貴方が私と彼との関係をどこまで知っているのか存じ上げま
 せんが、彼の知る私はもうこの世にはいないのです。私は預言者。その役目を果たすために、戻って参
 りました」

彼女が何を言っているのか理解できなかった。そしてそれが理解できたとき、俺を弾き飛ばしたあの男は
今、どうしているだろうかと思った。
預言者は俺の思考を読んだかのように、「大丈夫でしょう」と言った。

「私が戻ってきたことによって、彼への追っ手はもうかからない筈。それに、彼は私がいなくなっても前
 を向いて歩いていける人です。現に、私が死んだと伝えた時には、彼はちゃんと立ち直ってくださいま
 した」

だから大丈夫だと。
俺は出会った当初の葵の姿を思い出す。何も悩みがないような、底抜けに明るく、まぶしい笑顔。任務以
外のことはすべて無駄なことだと考えていた俺の心に入り込んで、いつの間にか欠かすことのできない存
在になっていた。
写真館で一緒に暮らしていた頃を思い出す。ふいにいつもと違う目をして、どこか遠い場所を見つめる。
そんな時の彼の瞳には、ひょっとしたら、俺の知らない過去を思い出しているのかもしれないと考えてい
た。
預言者はヴァイオリンをケースから取り出し、「一曲、聴いて下さる?」と言って弓を手に取った。
聴いたことのあるような旋律が室内に響く。それが、葵がよく弾いていた曲だと気づくのには大分時間が
かかった。
いつだったか、ラジオの放送でこの曲が流れた時に、俺が「こういう曲は弾けないのか」と問うたら「え、
いつも弾いてるじゃん」と彼が答えたことで、ようやく原曲を知ることができたということがあった。
俺の耳には、あの下手なヴァイオリンの音がいつの間にか日常の一部になっていて、元の曲を聴いても同
じ曲とは思えなかった。
だからなのか、優雅に弧を描くように動く弓の先を眺めながら、違和感を覚える。

演奏を終えた預言者はヴァイオリンを下ろす。俺は思わず、「アイツの弾く曲とは似ても似つかない」と
言った。
彼女はハッと顔を上げる。

「彼はまだ、この曲を弾いてくれているの……?」

俺は静かに頷いた。

「壊れたラジオのように。それはもう一日と間を置かず」
「そう……」
「貴女のように美しい音色ではありませんでしたが。そもそも、あれだけ毎日弾いていて、上達の兆しが
 欠片も見えないというのは、アイツにヴァイオリンの才能はないのかもしれません」
「ふふっ、そうね……」

預言者は鈴の音が鳴るようにくすくすと笑う。確かに聞いた訳ではないが、葵のヴァイオリンは彼女の教
授によるものだろう。
だからこそ、俺は思う。

「アイツは……、葵は、貴女が思っているほど強い人間ではありませんよ」

頑なに同じ曲を弾き続け、かさばるし、手入れも必要になる楽器をわざわざ持ち歩く。それは死んだ婚約
者が彼に遺した唯一のものだったから。

「アイツは確かに、辛いことがあっても前を向ける人間です。ですが、他人を前へ押しやることはできて
 も、自分が前へ歩き出すことはできないんです」

徐々にだが、俺の中の世界を広げて、桜井機関にいることも俺に与えられた役目なんだと前向きに捉えら
れるようになったのは葵が共にいてくれたからだ。それでもアイツは俯瞰から物事を見るくせに、自分の
過去は捨てきれないでいる。
だから俺は、預言者に会おうとした彼を、力ずくでは止められなかったんだと思う。どんなに思いをはせ
ても届かない過去に、届かせてやりたかったから。
預言者はとても悲しそうな顔をして「そうね……」と言った。
背にしていた扉がノックされ、預言者に休んでもらうため、部屋を出るように言われる。
俺は彼女に非礼を詫びた後、敬礼をして部屋を出た。
次の警備の時間を確認し、割り当てられた部屋へ戻る。
服を脱ぎ、横になった布団の上で考える。

もしもまた、今日のようなことが起きたとしたら自分はどうするか。
きっと同じように迷い、説得しようとして、けれど最後には葵の望みを優先させるだろう。

俺の心はゆらゆらと揺れるようで、結局重きを置くのは、初めて心を許した人間――葵のことなのだろう。
そのためなら、自分の命を賭してもかまわない。

答えはいつの間にか心の中にあった。



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覚悟決めてます葛さん。ま、この後お兄様について行ってしまうわけですが(笑)
友人Mに言われたんですが、「静音がひどい女だね」と。
確かに置いてけぼりはひどいと思いますけど、でも静音にとっての葵さんは置いてけぼりされても立ち直
れる強い人だったんだと思います。葵さんも一応日本男児だから、女の人の前で弱い姿は見せなかったと
思うんですよ。むしろ静音に寄りかかってもらえるように強くて明るい男であろうとしてたんじゃないか
と。だけど実際はそうじゃなかった、みたいな。
葛さんは一緒に住んだり、任務をこなしたりしてきたなかで、そんな葵さんの弱くて情けない部分も見て
いたから、静音さんとは違う印象の葵さんだったんだと思います。それこそ、男同士だから見ることがで
きていた部分だと思います。
だから、静音さんはひどい女じゃないんだよ、と言っておきたい。

長々とすいませんでしたm(__)m

2011/11/27

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