葵の天秤 どうにか二人乗りできそうなバイクを見つけて、静音を待たせていた空き家に戻ったら、そこにはすでに 彼女の姿はなかった。 「静音……」 灯りも消えた空虚な部屋に響いた声がひどく傷ついて聞こえて、馬鹿みたいだと思った。 遠くのほうに複数の人影を見た気がして、すぐにその場所を離れた。もしも軍の人間が“預言者”を誘拐 した犯人探しをしているのなら、このままここに居ては捕まってしまう。 俺は再びバイクにまたがり、集落を後にする。 新京の近くの小さな町まで走り、借りたバイクを元の場所に戻してそのまま宿を探した。 けれど、ベッドで安穏と休む気にもなれなくて、路地裏でうずくまり、朝を迎える。 そしてまた、朝市で賑わう町をぶらぶらと彷徨う。畑で採れたばかりの野菜、果物、作りたての包子、湯 気の立つスープ。活気の溢れる光景が、どこか額の向こうに描かれた世界のように思えた。 結局、何も口にしないまま昼を迎え、夜を迎えた。 昨晩と同じように路地裏でうずくまっていると、疲れた表情をした女が近づいてきた。 「ねぇアンタ。昨日もそうやっていたわよね?お金なんていらないから、私を抱いてくれない?」 色鮮やかなチャイナドレスは男の目を引くための商売道具。けれどその下に包まれた肌には青い痣がいく つか見え隠れしている。 「なんだか客引きするの、疲れちゃった。アンタなら優しくしてくれそう。ねぇ、私を抱いてよ」 女は言う。可哀想だと思った。俺は彼女に手を伸ばし、顔を引き寄せる。 そっと頬を重ね合わせた。そして離れる。 彼女は呆気にとられた表情をしていた。 「今のは欧米での挨拶。悪いけど、俺には愛してる人がいるんだ。俺はその人を裏切ることはできない。 だから君を抱くことはできない」 ごめんな。そう言って微笑みかけた。 女は悲しそうな表情をしてこう言った。 「やっぱり貴方、優しい人。だけど可哀想。貴方の思いは報われなかったのね。私にはわかる。だって貴 方の顔にそう書いてあるもの」 だから声を掛けたのだと、そう言って女は立ち去った。 俺はごろりと横になりながら、建物の隙間から見える星空をぼんやりと眺めた。 思いは報われなかった。あの空き家で静音が待っていてくれたら、俺の思いが報われたことになるのなら、 今この現状は確かに報われなかったことになる。 だが、死んだと思っていた彼女が生きていて、再び出会い、彼女の気持ちを知れたことは、俺の思いが報 われたことになる。 もう一度会いたいという願いは叶い、もう一度一緒に生きたいという願いは叶わなかった。 女の言葉半分合っていて、半分間違っていた。 静音が再び、俺の前から姿を消したこと。それがイコールで俺を嫌いになったこととは思えない。 単なる思い上がりかもしれない。けれど、この腕に抱いた小さな体の震えはそうではないと確信させる。 守ってやらなくちゃ。預言者なんて馬鹿げた鎖から解き放ってやらなくちゃ。そう心が急く。 だがその思いを拒絶されたこともまた事実。 俺は、どうすることが彼女の望みなのかがわからなくなっていた。 仰向けになっていた体を横に転がすと、通りを歩いていく軍服姿が目に入った。談笑していた様子を見る と、俺の追っ手ではないらしい。 制服は日本陸軍の制服。俺は仕事上のパートナーとなって一年以上、そして好意を抱くようになって半年 以上経つ相棒の姿を思い浮かべた。 彼とは、出会ってから何度も衝突を繰り返してきたが、今回ばかりはやりすぎたかもしれない。 言い争いになることはしょっちゅうあったが、手を上げたことは一度もなかった。それを今回、俺は能力 を使って彼を弾き飛ばしてしまった。 「けど、そもそも最初に銃を向けてきたのはアイツのほうで……」 確かに任務を放り出して、ましてや警護対象の預言者を連れ出そうなどとすれば、葛の行動は正しかった かもしれない。 「だけど、彼女は普通の女の子なんだ……!俺が愛した婚約者なんだ!」 どうしてそれをわかってくれない。彼もまた、俺に対して好意を抱いてくれていることは気づいている。 ならば、俺のこの気持ちだってわかってくれてもいいものだろうに。 きっと葛は、正確にあの晩のことを桜井さんに報告して、裏切り者の俺を一緒に捜索していることだろう。 葛の性格なら、きっとそうする。ましてや、俺の気持ちを許してもくれなかったアイツなら、そうするの が当然のことのようにも思えた。 「だったら早く見つけてみせろ。そして、“三好葵”のまま殺してくれ」 彼女が“預言者”として生きるというのなら、俺もまた仮の姿のまま死んでしまいたい。 静音が再び、俺の前から姿を消したこと。それがとても大きな心の傷になってしまったらしく、俺はすべ てがどうでもよくなった気がして、死んでしまおうと思った。 翌朝。歩くにもふらふらして足下が覚束なかったので、粥を買って腹に入れた。 幾分マシになったので、町から離れるように歩き始めた。 目指すのは、周りに人家も店もない、満州鉄道の線路沿い。猛スピードで突っ込んでくる機関車が、ちっ ぽけな人間一人を跳ね飛ばしても、誰一人気づかないような場所。 丸一日歩いて、俺は町から随分離れた、野原までやってきた。 人目につかずに死んでしまうなら、夜になれば尚のこといい。 俺は月が真上にくる頃まで、野原に寝転んで、静音と過ごした時間を思い出していた。 腕時計の針が真夜中の時間帯を指した頃、遠くから地響きが聞こえてきた。顔を上げると、機関車の灯り が近づいてくるのが見えた。 俺は深呼吸を一つ。ゆっくりと線路に近づいていった。 あのスピードなら一瞬で死ねるだろうな。俺はそう思って、線路の際まで立った。 汽笛が鳴らされない。つまり運転手は気づいていない。このままあと一歩を踏み出せばいい。 車輪の音が近づいてくる。機関車の灯りは目と鼻の先だ。 ゴオォッ!という轟音。ドサッ、という重い物が草の上を転がる音。 俺は草の上に尻餅をついたまま、既に遠くへ行ってしまった機関車を見送った。 「く、はは……あはは……!」 機関車がすぐそこまで迫った時、ふいに誰かに手首を握られた気がしたのだ。驚いて振り向いたら、機関 車の通り過ぎる風圧で草の上に転がり落ちていた。 辺りを見回しても誰もおらず、俺は意味もなく声をあげて笑った。 きっと静音が呼び戻してくれたんだ。そうだ。俺が死んでしまったら、きっと彼女は悲しむ。自分が俺を 死なせたと苦しんでしまう。そうだ。きっとそうだ。 「あはははっ!はは、はははは……は……」 笑いながら、その矛盾に気づく。 彼女と手を繋いだこと。彼女を腕に抱いたこと。その感触は確かに記憶に残っているだろうけれど、彼女 に手首を握られた記憶はない。 あれは単なる、死ぬことを恐れた自分の幻覚。そのことに思い当たって、俺は強く拳を握りしめた。 「くっそ……っ!!」 何度も何度も地面を殴った。女に言い訳を被せて、死ぬのを怖がる自分に腹が立った。 「ちくしょぉぉぉぉぉ!!」 俺は無力だ。愛する人を救ってやれず、自分の気持ちさえ区切りがつけられない。 命を賭す覚悟も決められない。 数日後。新京の資材置き場でただ流れるだけの時間を生きていたら、桜井さんが現れた。 そして葛と共に大連へ行けと言われた。 「葛と……?」 気まずいなぁ、と思って切符に視線を落とすが、二人で頭を冷やせというのはどういうことだろうと考え た。 思えば、どうしてこの場に葛はいないのか。 我らが上司に尋ねる前に、彼の方から答えをくれる。 「葛は近くの宿で謹慎処分を言い渡してある。こうならない為に彼を護衛につけたというのに、まさか君 の愚行に付き合って、手助けをするとは思いも寄らなかったよ」 俺は我が耳を疑った。 目を見開いた俺を振り向きもしないまま、桜井さんは壱師を連れて公園を後にする。 俺の心はゆらゆらと揺れた。 静音を救うことに専念するか、これまでと同じように葛と桜井機関の任務をこなすことに専念するか。 俺は手の中の大連行きの切符をじっと見つめたが、その答えは出せなかった。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- 病んだ葵さんブームです。しかし見ようによっては単なる情けない葵さんに見えるというのは、気のせい じゃないです。私にも見えます(笑) 葵さんが失踪していた日数は未確認で書いてしまったので、目をつぶってくださると嬉しいです。 某ブログサイト様で、失踪中の葵さんにスポットをあてた感想を書いていらっしゃったので、それから気 になって、書きたいと思っていたネタです。ありがとうございました。 2010/11/27 |