夏の陰画 怪我の巧妙 2




ビルの屋上で待っていたのは桜井さんと、棗と葵。雪菜は同席していなかった。
高額で売り渡す筈だった情報を、自分の失態のせいで溝に捨てることになってしまった。
桜井さんは笑って「いい経験になっただろう」と言っていたが、元来生真面目な性格の自分は、そう前
向きには考えられなかった。
なんとか挽回しようと、明後日の夜に決行の取引監視を買って出たが一蹴された。今回は棗に任せる、
と。
適材適所だと、自分でもわかっているのだが焦る気持ちは抑えられない。食い下がろうと口を開きか
け、葵と目が合った。
作戦時や言い合いをする時とは違う。内心を見透かされそうになる視線。射抜くような鳶色の瞳に口を
つぐんだ。
「知り合いかね?」
俺と西尾の関係を指して、桜井さんが言った。
「昔の友人です。それだけです」
――余計なことを言った。“それだけ”なんて、他にも関係があったと疑われても仕方ない。
瞬間的に葵が目を眇めたのを見て、内心で舌打ちした。きっと、当たらずとも遠からずな推測を立てら
れていることだろう。

今にも夕立が来そうな重い雲の下、俺達は解散した。

  ◇◆◇

葵は一人ぶらぶらと上海の町を歩いていた。
共に帰路につくかと思えば、葛は途中で「寄る所がある」と、止める間もなく去ってしまった。
尾行しようか逡巡し、腹が鳴ったのでやめた。風蘭の店で昼飯にしようと足を向けた。
夕立のどしゃ降りを凌ぎ、再び痛いほどの日射しを浴びながら、帰路についた。
建物の影から影、日射しから逃げるように歩いていたら、高給取り達の住宅街に出た。そしてそこで、
女と話す葛を見つけてしまった。
女は、見知らぬ相手じゃなかった。昨日、葛と共に国民党に捕まっていた女だ。確か、西尾の情婦だと
いう話を桜井さんから聞いた。
何故、そんな女と歩いているのか。葛に訊くまでもない。西尾のことを探ろうとしているのだろう。
俺は、二人の視線が住宅の方に向いた隙に、身を潜めていた木陰からスルリと路地へ滑り込む。
汗がじんわりと滲んできた頭を掻きむしり、葛に気づかれないうちにその場を去った。



夕暮れ時になって、葛が帰ってきた。
「意外と遅かったな。心配したぜ」
「…………」
軽い調子で声を掛けても返答はない。胸の内がもどかしい。
だが、このまま昼間のことを問い詰めても、きっと葛は表情を固くするだけだろう。
「風蘭から催促がきてるぜ。報酬を払うんだから、ちゃんと仕事しろってな」
俺はテーブルに広げていた写真の数々を指で叩いて示した。
葛はちらりとそちらを見る。
「――手伝おう」
「当たり前だ」
俺はニヤリと笑って、写真を一枚差し出した。葛は黙ってそれを受け取る。
蝉の声を聞きながら、俺達は黙々と写真に彩色を施した。
作業の合間にチラチラと、葛の顔を盗み見る。絆創膏を取ってはいるが、口元はまだ赤く腫れている
し、額の痣もうっすらと残っている。右手に負った火傷の痕も、顕になっていた。
綺麗な顔をしているのにもったいないなぁ、と思うのと同時に、どうして完治してないのに包帯を外
し、傷を晒すのか、疑問に思った。
簡単だ。昼間会っていたあの女に気を遣わせないためだろう。
一日置いた傷痕は、薄暗い場所ではよくわからないので、夕立の暗い空や並木の木陰は好都合だった筈
だ。
葛は絵筆で写真に色をつけているが、火傷が痛むらしく、時折手を休めていた。そして、しきりに手首
を気にする。背広の裾から覗く手首は、縄で縛られていた場所が赤黒く擦れていた。
俺は眉をしかめると、意識する間もなく口に出していた。
「西尾の情婦に会ってきたらしいな」
葛の指がピク、と止まる。俺はしまった、と思った。人から聞いた風な口ぶりになったのは、多少なり
とも、否定してほしいという願望からであろうか。
だが、止めろ、と思うのに一度口から出た言葉は止まらなかった。
「わからないのか。関わるな、という命令だろう。なぁ、お前にとって西尾ってなんなんだ」
予想通り、葛は思い詰めた表情で無言を貫いた。
何を言っても無駄だと思っているのだろうか。
「(無駄なものか。俺はお前の口から、理由を話してもらいたい)」
葛のきつく結んだ唇を見つめた。力を込めたせいで、傷が開き、血が滲んでいる。
痛々しいそれに手を伸ばしかけたところで、葛はふいに立ち上がった。
「すまない」
一言そう言い残して、部屋を出て行ってしまう。階段を上る音がしたので、自室に戻ったのだろう。
俺は一人になったリビングで、長いため息をついた。
「はあぁ……ぁぁあああもうっ!!」
ため息の延長で叫び、テーブルを拳で叩くと、絵筆が転がり、テーブルを汚す。
俺はそれを横目で見ながら、頭を抱えた。
「あんな顔させたい訳じゃねぇんだよ……。俺はただ――」
葛と西尾との関係が知りたいだけなのだ。
自分と葛は偽りの姿、名前しか知らない。俺達は互いの本名すら知らない。
葛自身は余計な関わりを持つつもりがないようだから、本名も過去のことも興味がないのだろう。話す
つもりもないのかと思った。それが――。
『子どもの頃、友人と遊んでいる時に割れた竹を踏んだ』
一昨日の昼、足の甲の古い傷痕について答えてくれた。それは少なからず、自分に心を開いてくれたと
いうことではなかったのか。
今の葛は明らかに自分を拒絶している。西尾との関係を知られたくない、というのがまるわかりだ。
「あんな風に黙られたら、こっちは余計な疑いまで持たなきゃならないだろう」
桜井や棗が疑っているのは、葛の裏切りだ。だが、自分は違うと思っている。
逆に、裏切りではないからこそ、言い訳をしないのだ。葛ほど頭のまわる奴なら、裏切りに際して周到
な言い訳を用意し、安易な行動は慎むはず。
自分が疑っているのは、葛と西尾との関係性。即ち、本当に“ただの”友人であったのか否か。
では、ただの友人でないなら何か。
親友か、あるいは――恋人。
「いやいや!それはない!!だってアイツ男だし!西尾も男だし!!」
聞く相手もいないのに言い訳をしてみる。その虚しさに脱力した。
テーブルに突っ伏して、ぼんやりと窓の外を眺めた。
「その可能性を捨てきれてねぇから、心穏やかじゃねぇんだっつーの」
西洋へ外遊した経験のある身からしたら、男同士がそういう関係になり得ることは知識として持ってい
る。
そして、あの情婦のように、一度恋に落ちた者は身の危険も顧みない。
もし葛と西尾が過去に恋仲であったりしたら、裏切る気はなくとも、それに近い行動を取るかもしれな
い。そのことを危惧している。
うまく事情を聞き出せない自分に苛立ち、思わず大きなため息が漏れた。
日が暮れ、薄暗い部屋で、ただ茫然と「どうしたらいいんだ」と呟く自分が、ひどく情けなかった。

 ◇◆◇

「はぁ……」
ベッドに腰掛け、額に手を置くと、小さなため息が出た。先程の態度はよくなかった、と反省する。
葵は組織のことを案じて、自分を監視しようとしているだけだとわかっている。西尾を追う本当の目的
を話すべきだということも。
だが、できない。あの鳶色の瞳を見てしまうと、何故か言葉が出なくなる。
葵にだけは、西尾との関係を知られたくないと思う自分がいる。
それは、過去に自分と西尾との間に起きた変化を、未だ割りきれないでいるからかもしれない。だから
こそ、今回の邂逅に執着している。
「西尾……」
ベッドに寝そべり、親友であった男の名を呼んだ。



幼い頃、自分の家と西尾の住む家は近く、いわゆる幼なじみの関係にあった。
小・中と同じ学校に進み、軍学校も同じ所を目指すつもりだった。
自分は、西尾を親友だと思っていた。幼い頃、割れた竹を踏んで大怪我をした時、なぜか西尾は自ら竹
を踏んで、同じように怪我をした。理由を問うと、俺が怪我のために医者へ行くことを拒否したので、
自分の付き添いで俺も医者に診させようとしたからだった。
祖母には「注意力が足らない」と叱りを受けたが、足に残った傷痕は、西尾との親友の証であるかのよ
うに思えた。
親友。そう思っていたのは自分だけだった。いつからか西尾の思いは、自分とは別のものに変化してい
た。
軍学校に入る年、西尾に呼び出されて、町の外れの小屋へ出向いていった。
どうしてこんな場所で?と思ったが、西尾の行動は唐突なところがあったので、敢えて問いかけはしな
かった。
初めは他愛のない会話をしていた。それがふいに、西尾が立ち上がり、自分の横へ来たと思うと、強い
力で肩を掴まれた。
『西尾?』
どうした、と尋ねる間もなかった。強引に押し倒され、手で口を塞がれた。
咄嗟のことに驚き、突き飛ばそうとしたが、拘束された腕はピクリとも動かなかった。
驚愕に見開いた目は西尾を凝視し、西尾の顔が近づいてきたと思ったら、深く口づけされていた。
その瞬間、自分と西尾の間にすれ違いがあったことに気づいた。
西尾は、本来なら異性に向けるべき好意を、自分に対して抱いていた。
親友だと思っていた男に犯されそうになり、恐怖に震えた。
『好きだ』という言葉に『やめろ』と答え、『大丈夫だから』という言葉に涙を落とした。その涙を見
て、下腹部を這っていた西尾の手が止まった。
『すまない』
西尾はそう言うと、上着を渡し、小屋の隅へ行って頭を抱えた。
『西尾……』
俺の呼びかけに、西尾は振り向かずに答えた。
『服を着たら、出て行ってくれ。身勝手な真似をした俺が頼めることじゃないが、少し頭を冷やした
い。乱暴にしてすまなかった』
ひどく後悔している、と長い付き合いからわかっていた。俺は何も言わずに服を着ると、小屋を出て行
く前にもう一度、西尾に話しかけた。
『俺は、親友としてのお前が好きだ。それじゃ駄目なのか』
西尾はやはり顔を向けず、
『好きなんだ。どうしようもなくなるほど、好きだった』
そして最後にもう一度『すまなかった』と言うと、西尾は大きな岩になってしまったように、なんの反
応も返さなくなった。
その日以降、西尾は自分を避けるようになり、やがて軍学校に入る頃になると、俺の前から姿を消し
た。



心のどこかで西尾に惹かれていたのは否定しない。今日の昼間会った、アイツの情婦と呼ばれた女は
言っていた。
『激しくて、危うくて、一緒にいるとこちらがバテてしまいそうになる。でも離れるとまた会いたく
なる』
そんな、夏のような男だと。
自分は、近づきすぎてしまったのだろうか。
共に笑って、無茶をして、悔しいと泣いた。それはとても長い夏だった。
季節は巡らなくてはならない。自分は夏の中に居すぎたのだろうか。
このまま、桜井機関に身を置いたら、寝食を共にしている葵とも、信頼を通り越した別の関係になって
しまったりしないだろうか――。
そこまで考えて、そんな杞憂は無駄ではないかと思えてきた。
「そもそも、俺とアイツの間に信頼関係などないか……」
それは、自らが築いた壁。誰かと近しい関係になることを恐れて、必要以上の関わりを避けてきた。
その上、今回の出来事である。仮に葵から信頼を得ていたとしても、完全に失っているだろう。
ふいに、胸が苦しくなった。寂しいような、悲しいような、よくわからない気持ちになった。
「三好、葵……」
脳裏に浮かんだ男の名を呟く。彼はまだ階下にいるだろうか。
「(西尾との件が片付くまで、顔を合わせたくないな……)」
深く息をつく。窓の外は夕暮れも去り、夜の闇が迫ってきていた。




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西尾とは、本当に仲のいい友人だったと思いたいです。だって古い友人なのに、「あいつなら言いそう
なことだと思って」なんて言えるのは、考えが読めるくらい一緒にいたってことですもんね!

葵さんがもやもやしてます(笑)

2010/07/04

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