絆 中編 葛の瞬間移動よりも遥かに心地の悪い浮遊感の後に、足先に伝わる衝撃。 ざぶん!という音と泡立つ水に聴覚と視覚を奪われてから、まずは冷静に水面に向かって泳いだ。 崖の上から見た川はかなり流れが速く、荒れていたように見えたが、実際は冷静になって泳ごうと思えば できなくはない。 とは言え、流れが速いのは確かなので、片足に鎖が巻きつき、自由がきかない葛が自分と同じように泳ぐ ことができたかどうかはわからない。 「(葛……!!)」 俺は飛沫の立つ波の間に相棒の姿を必死に探した。 ◇◆◇ 葵が崖から飛び降りる少し前。片足の自由がきかない状態で、葛は波に呑まれていた。 自分の能力で葵を崔青琳の背後に逃がした後、辛うじて、葵が彼女を気絶させた様子は見えた。その後は 濁った水に視界を奪われて、上も下もわからなくなる。 左足に絡まったままの鎖に大幅に動きを制限されていたので、まずはそれを解こうとする。 浮力があるおかげか、流れの変化によって時折拘束が弛む瞬間がある。その時を狙って鎖を外していく も、焦ってもがくほど、肺の中の酸素の限界を感じた。 「(あと少し……)」 苦しいことには慣れているが、呼吸までは我慢できない。冷静な思考の裏で焦燥を自覚しながら、葛はな んとか拘束から逃れ、自由になった足で水を蹴って水面に顔を出した。 「……っハァッ!!ハァ、ハァッ――っ!?」 ――息ができない苦しさから解放された油断だろうか。葛はその瞬間、自分がどういった場所を流されて いたのか確認を怠った。 ドガッ、という鈍い音。全身を襲う激しい痛み。 「ぁっ……ッ!!」 急流に流された勢いのまま、川の中にあった岩に全身を打ちつけた。体勢を崩した葛はその後も数回続け て流木や岸壁に打ちつけられる。 痛さのあまり、意識して呼吸ができず、水を思いきり飲んで咳き込み、更なる悪循環を招く。 全身を打ったことと酸素不足で薄れていく意識。思考も働かず、泳ぐための力もない。 苦しくて喉と口を押さえて強ばっていた葛の体から徐々に力が抜けていく。 やがて、川の流れに翻弄され、溺れ死ぬのを待つだけだった葛の腕を掴んで引き寄せる力があった。 「葛っ!!」 水面に引き上げられ、意識が途切れる寸前、辛うじて聞こえた声。 「(あ……お、い……?)」 冷えきった身体は新たな体温に抱かれ、そこで完全に意識を失った。 ◇◆◇ 次に意識を取り戻したのは、固い地面の上。水にもみくちゃにされるあの感覚は、ない。 どこかに打ち上げられたのだろうか。 重い目蓋をゆっくり開くと、岩壁がぐるりと周囲を覆い、そこが洞窟なのだとわかる。 ぱちぱちと薪のはぜる音がしてそちらに顔を向けると、小さなたき火と、その前でこくりこくりと船を漕 ぐ葵が座っていた。 葵は上半身裸で、近くの岩に変装で着ていた服が掛けてあった。 よく耳をすますと、遠くの方から雨の音がする。外は雨か……。 俺は肘をついて体を起こそうとする。 「くっ……!」 胸の辺りに痛みを感じて、思わず声をあげる。するとうつらうつらしていた葵が目を覚まし、「葛っ!」 とすぐさま俺の傍に駆け寄ってきた。 「大丈夫か!?どこか痛むのか!?」 「胸、の辺りが……。岩に身体を、打ちつけた時……肋骨にヒビでも入ったのかもしれない」 葵の手を借りて、どうにか起き上がる。深く息をしようとすると、肺がチリリと痛むので、もしかしたら 折れている可能性もある。 「そうか……。無理するな。しばらく追っ手もないだろうから、少し休むといい」 「ここはどこだ。……そうだ。何故、お前がここにいる」 よく考えればおかしなことだった。俺が崖から落ちた時、葵は俺の能力で崖の上に転移させた筈である。 そして最後に見た様子では、俺たちを危機に陥れていた崔青琳は葵が気絶させた筈……。 「もしや、俺が落ちた後にも別の追っ手が……?」 「いやいや、そうじゃない。俺がお前を追って、川に飛び込んだんだ」 「なんだと……?」 たき火に薪をくべに行く葵の背を凝視する。薪をくべ、俺の斜め前に座った葵は「そう怒るなよ」と苦笑 した。 「機密文書はちゃんと雪菜と棗に預けてきた。お前が言った通り、任務は優先させてから追っかけてきた んだぜ」 「馬鹿か、お前。なんでわざわざ自分の身を危険に晒すようなことを――」 その時、俺はたき火に照らされる葵の額の端に切り傷ができているのに気づいた。 「葵、その傷……」 手を伸ばし、触れようとするが、自身の怪我が痛み、引っ込める。 葵は苦笑いのまま、傷に手を遣った。 「やっぱり目立つか?けっこうすぐに血は止まったから、大した怪我じゃないと思ったんだが……」 「その怪我、どうしたんだ」 「お前を抱えて岸に上がる時、ちょっとな……」 そう言って言葉を濁す。俺に気を遣わせまいとしているのか。 「俺のことは気にすんな。それよりお前のほうが心配だ。肋骨もだが……、その左足。ひどく腫れてる。 そっちのほうが見ていて辛い」 葵に言われ、俺は自分の左足に目を遣った。 靴は脱がされ、素足になっている。鎖が巻きついていたところは赤黒い蛇が這っているような痕になり、 ふくらはぎから足首にかけてはかなり腫れていた。 意識を向ければ、じんじんと痛みの波がやってくる。俺は少しだけ顔をしかめ、しかしすぐに表情を消し た。 「――俺は、平気だ。痛みなら耐えられる」 そう答えると、葵はため息をついて頭をかく。 「なんでそう強がるかね……」 「強がってなどいない」 「じゃあ“ひとりよがり”だ」 「なに……?」 自然、眉間にしわが寄る。葵は炎の方に顔を向けながら、目を眇めてこちらを見た。 「お前さ、俺がテレポートさせられた後、何を思ったかわかってるか?なんであの時、お前も一緒に飛ば なかったんだよ。そうすれば今頃……」 俺は小さく首を振って答える。 「あの時、俺の視界の及ぶ範囲内で俺も共に飛んだ場合、崔青琳の銃弾をどちらかが受ける可能性が限り なく高かった。あの時はあれが最善だったと――」 「わかってるよ、そんなことは!お前ならその最善の選択をするってことも、充分に……!」 「なら、なんだ」 人の答えを遮っておきながら口を閉ざす葵に苛立ちが募る。葵、と、多少荒いだ声で名前を呼んだ。 「俺は……」と葵はようやく口を開く。 「俺は、組織の為に個人が犠牲になるやり方は間違ってると思う。――お前さ、お前が崖から落ちた時、 俺がどんな気持ちだったか想像できるか?」 葵はさっきと同じ問いを口にする。彼の様子からすると、恐らく俺が自分の身を省みず、行動に移したこ とが気に入らなかったようだが……。 「――悔しかった」 「……?」 疑問符を浮かべた俺に気づく様子もなく、葵は額を押さえて苦々しい口調で言った。 「悔しかった。お前を犠牲にするしか、任務を遂行できない自分の無力さが……!俺はまた、俺自身の力 の無さで大事な人を犠牲にしちまうのか、って……!!」 ――“また”? 俺が葵の言葉に引っかかりを覚えたことにも気づかず、まくし立てるように奴は言う。 「なぁ。確かに俺はお前ほど腕は立たない。けど……だけどさ!お前だけが傷つくやり方は止めてくれ! 任務を優先させるのはわかる。だが、そのために一人で突っ走るな!」 葵の言葉が途切れた。 興奮した葵を落ち着かせるように、努めて低い声を出す。 「いつも先走るのはお前のほうだろう」 「それでも、俺はお前や雪菜、棗を信頼してる。みんなが動いてくれることを信じて、俺は動く」 葵を見ると、奴は思っていた以上に落ち着いていた。ただ、少しいつもと違う印象を与える。 葵が俺を見る。俺と葵の視線が交わる。 葵の鳶色の瞳がたき火に照らされて透き通った綺麗な色をしていた。まるで琥珀のようだ。 そうして気づく。葵の表情に違和感を感じたのは、今の彼から笑みが消えているからだと。笑みも、怒り も呆れも驚きも、今まで見てきた葵の表情にあったものがないからだと。 葵は詰めていた息を吐くように、 「――俺とお前の間に、“仲間の絆”ってのは存在しないのか……?」 と、どこか辛そうに言った。そして俺の答えを待つように沈黙する。 葵の問いに、俺は“ある”“ない”の二択では答えられない。 答えるとしたら、俺は……。 「……葛。お前、大丈夫か?」 思考に耽ってしまった俺に、葵がふいに言ってきた。 なんのことかと、無意識にうつ向いていた顔を上げる。すると、葵は俺の顔をじっと見て、心配そうに 言った。 「唇が真っ青なままだ。寒いか?」 そう問われて、自分の指で唇に触れてみる。凍ったように冷たい己の指先に驚いて、手の平を見つめた。 顔はたき火の方を向いている分、むしろ暑いくらいだが、身体の芯のほうはというと、濡れた服を着たま まなせいか冷えきっていた。叶うことなら熱い風呂に浸かりたい。 「もうちょっとこっち来いよ。上着を脱いでさ」 「これ以上近づいたら熱くて敵わない。これを着ていてちょうどいいくらいなんだ」 「そうは言うが、全然暖まれてないだろ。ちょっと手を……」 そう言って葵が体を伸ばしてくる。手を触らせろと言うので右手を差し出すと、彼は「どれどれ……」と 言って俺の手を握った。葵の手が触れた瞬間、じんわりとした温もりに心が緩む。 「うわ、雪女の手みたいに冷てぇ!」 「雪女に会ったことあるのか」 「言葉の綾だろ。あげ足を取るなよ。――葛、ちょっと上着だけでいいから脱げよ」 「脱いだら熱いと……」 「いいから。脱いで、少し後ろに下がれ。火傷しないくらいの所まで」 俺は訝しげな顔をして、しぶしぶ上着を脱いだ。小さな切傷が痛む。立ち上がって、俺の傍に来た葵が 「大丈夫か?」と頭上から尋ねた。 「かすり傷ばかりだ。問題ない。それで?どうするつもりだ?」 「こうすんの」 すると葵は、すとん、と俺の後ろに座ると、包み込むようにして俺を背後から抱きしめた。服を脱いで、 上半身を裸になったので肌が密着し、直に葵の体温を感じる。 「葵っ!?お前っ、男同士でこれは……っ」 「恥ずかしいのか?俺たち以外、誰もいないんだからいいだろ?」 「っ……」 耳元で囁くように言われ、思わず息を詰める。 「完全に冷えきってるな。もっと力抜いてさ、俺の方に寄っかかっちまえば?」 「だが……」 「俺はそうしてくれたほうが楽」 「――……わかった」 強ばっていた体から力を抜き、背後の葵にゆっくりと体重を預けた。葵の体の温もりが、冷えた体に心地 いい。 次第に瞼が重くなってきて、葵の肩に頭まで預けそうになる。 「葛……?」 「ん……大丈夫だ」 とは言うものの、程よいたき火の熱と葵の体温が眠気を誘う。耳元で葵が小さく笑った。 「いいぜ、寝ても。こんなに近くでお前の寝顔が見られるなんて、滅多にないからな」 「――絶対に寝ない」 おいおい、と葵は苦笑する。 「ホントに、冗談抜きで。眠いなら寝ていいぞ。ここまできて、意地を張る必要はないだろ?」 「意地を張っているわけじゃ……」 「じゃあ何?」 即座に返されて、俺は言葉に詰まる。口ごもると、横から顔を覗き込まれて、顔ごと視線を逸らした。 「――男同士で抱き合って寝るというのはおかしいし、俺は溺れていたところをお前に助けられて、これ 以上、借りを作る訳にはいかない」 そう言うと、葵はあっけらかんとした口調で「なんだ」と言った。 「やっぱり意地を張ってるだけじゃないか。今さら借りとか気にするなよ」 「お前、俺の話をちゃんと聞いていたか?その前に俺は男同士で……」 「なぁ葛」 葵に呼びかけられて、言いかけていた抗議は遮られる。 体ごと抱きしめられ、肩に顎を乗せた葵の顔が近くにあって、満足に頭が動かせない。だが、視線だけ動 かして見た葵の表情は、なんだか苦しげだった。 「頼ってくれよ、もっと。寂しいだろ……」 「(葵……)」 俺は葵の心音を背中で感じながら、ぼんやりとたき火を見つめる。 仲間としての絆……。二択では答えられない俺の答え。それを伝えたら、彼はどう思うのだろうか。 葵の問いに対する答え。それは ――“欲しい”、だ。 俺は葵との間に強い絆が、繋がりが欲しい。 その想いを告げることはないまま、俺は深い眠りについた。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- 皆さん、経験ありませんか?体の芯まで冷えてストーブの前に陣取ったのに、顔だけ熱くて体は全然あっ たまらないということ。これじゃ埒があかん、ということでお風呂に入ったら気持ちよくて湯船の中で寝 ちゃったvということ。葛さんはそんな状態です(笑) 誰かこの「うとうとしてる葛さんを葵さんが後ろから抱っこして座ってる図」を描いてくれないかなぁ。 自分の画力でこの構図は無理だと思う……(x_x;) 2010/09/26 |