夏の陰画 怪我の巧妙 1




葛が帰って来ない。

「満腹御礼!せっかく風蘭が夕飯持ってきてアゲタいうのに、葛サンはどこほっつき歩いてルか!」
「本当にな」
無関心を装って包子を頬張るが、テーブルの下の小さな貧乏ゆすりは治まらなかった。
時間にうるさく、生活のリズムを崩すことを嫌う葛が夕飯刻に帰って来ないのは珍しい。
子どもではないのだから、何も心配することはないと思うのだが、昼間、様子がおかしかったのがどう
も気になる。
「しょうがない。包子は食べる時に蒸し直すがヨシ!あとは葵サンがたらふく食え!」
「ちょ、ちょっと待てよ!もうこれ以上は入らねぇって!!」
「問題ナシのこと!」
「ありまくりだろ!?」
なんとか風蘭の攻撃をかわして店に帰すと、俺は戸締まりを確認して二階に上がった。葛は鍵を持って
いるし、もし忘れていたとしても奴は瞬間移動能力があるから問題ないだろう。
この家に来た当初、広いほうの部屋を俺が半ば強引に奪ったため、必然的に奴は、家具を三つも置けば
手狭になる部屋を自室とすることになった。
俺は、その部屋の前に立って小さくノックを繰り返した。知らぬ間に帰って来ているのではないかとい
う淡い期待を抱いたからだ。
けれど、それは沈黙という答えによって裏切られた。
「葛?」
呼びかけながら部屋の扉を開くも、窓から差し込む月光と街のネオン以外、私物の少ない閑散とした部
屋は何も応答をよこさなかった。
「(勝手に入ったりしたら、キレるんだろうなぁ)」
その様子を予測できていながら、俺は扉の内側に足を踏み入れた。
ベッドは整えられ、服もすべてしまわれているようだ。窓際の机にもペン一つない。そもそも私物自体
がないのかと疑ったが、微かに覗き見た引き出しの中には綺麗に整頓されて万年筆やら便箋が収まって
いた。俺の部屋とは大違い。そう思った。
灯りを点けず、外からの光のみで照らされる部屋を一通り見回して、どこにも部屋の主の気配を感じな
いことを再確認すると、自然とため息が漏れた。
「なにやってんだよ、あいつ」
普段は「節度を保て」とか「余計なことに首を突っ込むな」とか、人一倍うるさく突っかかってくるく
せに、今日のこれは明らかに事件に巻き込まれたクチだろう。
探しに行ってやろうか。だが、特殊機関に身を置く者として、身勝手な行動は謹まなければならない。
葛に耳にタコができるほど言われていたことだ。
俺はもう一度、息を吐いた。
「ガキじゃないんだ。問題が起きても自己責任だよな」
日は暮れたというのに、外から蝉の声がうるさい。自分以外に誰もいないとなれば尚更。
「普段アイツが言っている台詞、そっくりそのまま返してやるぜ」
ハハハ、と笑う自分の声が白々しくて、思わず舌打ちをした。
「………ったく」
俺は縦に細長い部屋を横切って、廊下の明かりの中に立った。
「世話が焼けるよ、まったく」
ぐしゃぐしゃと短い髪をかき混ぜながら、ドアノブに手をかけた。
その時、店の裏口――住居にしている側の玄関の扉がけたたましくノックされ、先程別れたばかりの
少女の声が響いた。
「葵サン!葵サン!戦々恐々!一大事ナ!!」
ただ事ではない様子に慌てて階下に下りていくと、「どうしたんだ風蘭」と声を掛けながら扉を開い
た。愛らしい少女は血相を変えて叫んだ。
「葛サンが連れ去られた!!」


  ◇◆◇



夜の上海に出て、葵は葛が連れ去られた場所を探した。どうやら国民党の連中に拉致されたようなの
で、国民党員が集まる場所の内、最も近場にあるものへまずは向かうことにした。

壁に背を預けて中の様子を窺う。じりじりとつま先を向けると、唐突に背後から肩を掴まれた。
「っ!?」
「葵、俺だ」
「っ、……棗かぁ。びっくりさせんなよ」
「すまない」
大仰に肩を落とす葵に、棗は苦笑した。
「で?こんな所でなにしてんだ?」
「それはこっちの台詞だ。葵こそ何をしていた」
「俺は……葛を探しに」
「葛を?」
「アイツ、昼に出掛けたっきり連絡もないんだ。どうやら国民党の連中に拉致られたらしい」
「なんでまた、そんな……!」
静かに驚きの声を上げる棗に、肩の位置で両手を広げ、首を振った。
「俺が知るかよ。そうだ、棗、ちょうどいい。この建物の中に葛がいないか、ちょっと視てくれない
か?」
「わかった」
棗はそのままじっと、壁の向こうを凝視する。しばらくして、「たぶん……」と、目を細くしながら
言った。
「顔が見えないので確信はないが、牢屋のような場所にいる。手足を縛られて身動きが取れないみたい
だ」
「無事なのか?」
「一応。ただ、傷だらけで動かない。気を失っているだけだと思うが」
怪我をしている。そう聞いた途端、葵の頭の中が一瞬、沸騰したように真っ白になった。
しかし、視線を葵に移して、どうする?と目で尋ねる棗に、彼は顎に手を当てて思案する素振りを見せ
て言った。
「俺たちの手で助けられれば一番いいんだが、下準備をしていないし、そうもいかないだろうな。ここ
は大人しく、上の指示を仰ごうぜ」
クイ、と首を傾けながら親指で賑やかな大通りを示す。一旦此処を離れようという葵に、棗もまた同意
して、二人は彼らの上司にあたる桜井に連絡を取ろうと移動を開始した。



  ◇◆◇



拷問に近い尋問を受け、意識を保っていられたのは暗い小部屋に押し込められるまで。
そこで俺を厄介事に巻き込んでくれた女といくつか言葉を交わした後、意識は混沌へと落ちていった。
次に目覚めた時には既に、外から日の光が差し込んできていた。
「出ろ。お迎えだ」
痛む頭を押さえることもできず、首だけ捻って光の差し込む扉を振り返ると、そこには昨晩の男が立っ
ていた。
「よかったわね」
昨日見た時と同じような恰好のまま女が言った。俺が一瞥している間に、男は女の腕をも掴む。
「お前もだ。さっさと立て」
女は意外そうな顔をしていた。自分が解放されるとは予想だにしていなかったらしい。
俺は床を転がり、仰向けになると反動をつけて上体を起こした。痛む身体に鞭打ってなんとか立ち上が
ると、男は何も言わずに俺の背後に立ち、外へ出るように促した。女を立たせるより、自分のほうを
手伝ってほしかった、と口に出して言うほど愚かではない。
男に促されるまま歩いていくと、眩い夏の陽の中に立っていたのは同居している同僚だった。
「随分と男前になったな」
「…………」
軽口を叩く葵とまともに視線を合わせられず、太陽に焼かれる地面を睨みつけた。
後ろ手に縛られていた縄を断ち切られ、両手が自由になる。
敷地の外へ出て、監視の目がなくなると女はそそくさと立ち去った。俺は葵の運転する車に乗り、一晩
を明かした建物を後にする。
「ひどくやられたもんだ。らしからぬ失態だな。いったい何があった?」
「すまん」
予想外のことがあったとはいえ、今回の失態は明らかに自分に落ち度がある。挙げ句、葵や桜井機関に
迷惑をかけたとなれば、謝罪は当然のことと思えた。
「やけに素直じゃないの。しかし、それで終わりか?言い訳の一つくらい――」
なぜか葵の声が遠く聞こえた。すぐ隣で運転していたというのに。
「言い訳できることは、何もない」
自分の気持ちを誤魔化すように、まだ少し痺れが残る両手を握ったり開いたりする。
「かと言って、本当のことを話すつもりもないんだろう」
研ぎ澄まされた葵の声に何も言えなかった。胸の内を締め付けるような声に、唇を引き結んで車外を見
つめる。
沈黙で答える俺に、葵は深いため息をついた。
「ま、いいや。詮索するのは俺の柄じゃないしな。けど、あの狸親父がそれで納得するかどうか」
「…………」
葵の視線を感じながら、俺は車外の景色を眺め続けた。
いつもなら気にならない沈黙が、今日はやけに落ち着かなかった。

  ◇◆◇

怪我の手当てをした後は、自室に籠った。桜井さんと会うのは明日だ。それまでに気持ちを整理してお
く必要がある。
だが、頭に浮かぶのは西尾のこと。それから、葵のこと。
同じ家に住んで、同じ特殊部隊に身を置いて、“長い”とは言わないがそれなりの時間を過ごしてき
た。それなのに……、
「(あんな声、初めてだった……)」
思い出すだけで身体が緊張した。次に葵と顔を合わせる時、自分がいつもの無表情を貫けるか不安に
なった。
いつものように不必要に明るく無邪気な声で話しかけてくれればいい。言い合いの時のように、ムキに
なって今日の事を責めるならいい。
けれど今日のように、自分の心は読ませず、こちらの心の内だけを探るような、あんな鋭い声色で責め
られたら――。
自分はどうするんだろうか。
葵は詮索しないと言ったが、そもそも何故、自分は西尾のことを隠そうとしたのか。たかが古い友人と
いうだけの関係だ。桜井機関を裏切ると疑われることを恐れた訳でもない。
ただ、葵に西尾のことを知られたくなかった。理由はわからない。
そうやって、考えをまとめようとしている内に睡魔に襲われ、尋問の疲労で睡魔に抗う術もなく、俺は
呆気なく眠りに落ちた。



---------------------------------------------------------------------------------------------

拉致されている間に国民党の奴らにあれこれされちゃう葛さんも魅力的でしたが、あえて何もしません
でした。

2010/07/04

NEXT BACK