38才の本気 side-N 部屋の片づけは済んだ‥‥。 夕焼けに染まるアパートの一室を概観し、深く息をついた。 仕事に使う書類やスーツ、生活に最低限必要な数の食器や衣服。それらをすべて段ボールに詰め、明日 には運送業者に引き渡せるように準備は整っている。 アイツが残していったゲームソフトや本体は、そのままテレビの前に置いてある。大家には、俺が引き 払ってからも一週間は荷物を取りに来るかもしれないから、と伝えてあるのですぐにこの部屋がどうこ うされることはないだろう。 意外と、少なかったな…。 壁際に寄せた段ボールを眺めて思う。 本当に必要なものだけ持って行こうと集めた私物は段ボールに四つ分だけ。いま部屋に残っている物で 生活しようと思えばできるほど、まだ部屋の中は生活感が満ちあふれている。 衣服の半分は、いきなり泊まると言い出したアイツのためのもの。 食器類の大半は、弁当を作る時間が惜しかったと言って家に来てから料理を始めるアイツが、腕をふる いやすいように用意したもの。 テレビゲーム、雑誌、CD、DVD…すべてアイツが持ち込んだもの。 俺は段ボールの横の床に座り、暫くの間、目を閉じて時計の秒針の音に耳をすませた。 先週、パトリック君が一人暮らしを始めた。 いま、アイツは一人で暮らしている。 38歳。まだ新しい人生を始められる歳だ。 「賭けをしよう、アリー‥‥」 俺はこれからお前に会いに行く。一晩泊まりに行く。一昨日、お前に誘われたとおりに。 もし今夜、ただ躯を重ね合い、ただ愛を囁くだけに終わるのならば、 「もう、俺は十分、お前に幸せにしてもらった…」 別れよう。離れてしまえば、苦しくても、会いたくても、もうどうしようもないだろう? 『一緒に住みたい』 その一言は、俺の口からは絶対に言えない。 これ以上、お前の人生を狂わせるわけにはいかないのだから。 ゆっくりと立ち上がり、玄関に向かった。手には着替えと手製のホットケーキミックス。 「これが最後になるかは、お前次第…」 夕暮れを過ぎた薄暗い部屋に、鍵の閉まる無機質な音が寂しく響いた。 ◇◆◇ 「よっすー!ナナシ、よく来たな!!ま、入れ入れ!」 「あぁ、邪魔をする」 アリーはいつもの馬鹿そうな顔をニコニコと、終始楽しそうに、嬉しそうに緩ませて。 夕飯を作る間も、ホットケーキを食う間も、酒を飲む間も。 自慢の隠し味だとか、生クリームをつまみ食いしたりとか、パトリック君や刹那くんのことだとか、本 当に楽しそうに話しかけ、ちょっかいを出してくる。 一緒にシャワーを浴びようとぬかすので拳を握り、脅し、脱衣所から追い出した。 時刻は深夜2時。明日の昼からは店を開店させると言っていたから、実質のタイムリミットはパトリッ ク君が店の手伝いに来るまで。情事のあと、眠りについてしまうまで。 蛇口を捻り、シャワーを止める。軽く身体を拭き、バスタオルを羽織った。 「アリー、もう出るぞ」 扉の向こうから「おー」という返事が聞こえる。 服を着て出て行くと、廊下の先からアリーが歩いてきた。 「俺の部屋で待ってな。すぐに行くから」 そう耳元で囁かれ、俺は無意識に持っていたバスタオルを握りしめる。 背後で扉の閉まる音がした。 ドクン…ドクン…――― 「…さい、ご‥‥。これで、最後、かもしれない…」 前髪を伝って落ちる水滴。それと一緒に別の雫が頬を伝った。 正直に言って、アリーの部屋には数えるほどしか来ていない。そこで情事に至るなど本当に片手で足り るほどだ。 なにしろ、この家に二人きりでいることなどほとんどないことだった。その上、自分はこの家に来るこ とをなるべく避けていたのだから、必然的に回数は少なくなる。 髪を渇かした俺はバスタオルをたたんで椅子に掛け、ベッドの端に腰掛けた。 「‥‥‥‥‥‥‥」 耳に残っていた旋律。 酒を飲んでいる間、点けっぱなしになっていたテレビから流れていた曲だったと思う。 悲恋の曲だ。アリーが途中でチャンネルを変えてしまったので見逃したタイトルや歌手の名前は知らな い。 ただ、もしもこれから一人で暮らすことになったら、きっとよく口をついて出てくるだろう。 正しい終わり方を知らない恋の歌は口の中で繰り返される。 するとその時アリーが部屋の扉を開けた。 「いま、なんか歌ってたか?」 「悪いか」 「いや‥‥」 アリーは一度、目を逸らす。 俺がベッドから立ち上がり、口を引き結んだアイツにどうしたのかと尋ねる前に、アリーは俺の手と肩 を掴んでベッドに押し倒した。 「アリ…っ、ん…!」 “何をするんだ!”そう抗議する前に唇を塞がれてしまう。 熱くて心地いい。舌を絡め取られても、これが最後かもしれないと思っているせいか、いつものように 抵抗できない。 「ん、んぅ‥‥ん…――」 この甘い声は俺か…? 「ナナシ…」 ようやく唇を離したアリーが、俺の顔の両脇に腕をついて表情をのぞき込んでくる。 「ナナシ、さっきの曲、あんな寂しい声で歌うな。俺がいる間は歌うな」 「なんでお前にそんなこと…」 言葉を遮るように再びキス。そうしながらアリーは片手で俺のシャツのボタンを外していった。 抗うようにその手を押さえはしたが、止めるには至らない。 「お前が好きだから。好きなのに、お前が離れていっちまうような、悲しい歌だから」 ドクン、とひときわ大きく心臓が脈打った。一瞬、片づけた部屋の段ボールの並んだ様子が瞼に甦る。 心を見透かされたかと思った。 「今日は優しくする。全部俺に預けて…」 スッと一瞬だけ肌寒くなったがすぐに暖かくなる。来ていたシャツを脱いだアリーに抱きしめられたか らだった。 アリーの手は下肢へと伸び、俺は何度してもなくならない恥ずかしさだか恐怖だかわからない感情に目 を瞑る。 それから、アリーの愛撫によって一度快楽の頂点へ導かれ、理性がもろくなったところでアリーの指が 躯の奥まった場所へと進む。 感じる場所を指先が掠る度に喉から声が漏れ、アリーは満足そうに微笑んで更なる愛撫を続ける。 十分にほぐされた頃には理性の淵で次をねだるのを必死にこらえている状態だった。 挿入されたアリーの性器はいつもより熱く、大きい。酸素を求めて大きく喘いだ口から悲鳴のような声 が上がった。 「大丈夫か…?」 「ん、…だい、じょ…っぅあっ、待っ‥‥まだ、動か…っ」 「でも、ちょっ…ナナシ、力抜いて…」 抜いている。いや、抜こうとしている。だからこうして声が漏れるのも我慢して息を吐こうとしている のではないか。 アリーの手が髪を梳きながら頭を抱く。そうして軽く額にキスされて、俺はきつく枕の端を握りしめた。 「いいか…?動くぞ」 初めはゆっくりだった動きが段々激しくなっていく。 繋がりが深くなるにつれて、自分の喉から漏れる悲鳴のような声も恍惚としてきて。 いつの間にか枕の端を握っていた指は離れて、アリーの躯を求めていた。 大きな躯が律動を続けながら覆い被さってきて、俺は無意識に強くその背中にすがりつく。 「アリ、ィっ…!あぁっ、アッ、ぁん、やっ…!1」 「ぃって…、ナナシ、苦しいのか…?」 思わず爪を立ててしまったからだろう。額に汗を浮かべながら顔の脇でアリーが尋ねた。 大丈夫、だいじょうぶだと掠れた声で告げる。けれどアリーの背にしがみつく力を弱めることはできな い。 「一瞬だけ我慢な…?」 「ア、リィ…?っっ、ひ、ぃぁぁあっ、っ、っ、…!!」 優しく囁かれたかと思うとズンと深く最奥まで突かれ、同時に腹の間で擦り合わされていた自身は果て、 中ではアリーの熱いものが注がれるのを感じた。 強くしがみついていた腕から力が抜けて、両腕がシーツの上に投げ出されるように落ちる。 ずるりと挿入していたものを抜かれ、小さく声を上げた。 短く浅い呼吸を繰り返し、朦朧とした意識の中、アリーの心臓の音だけを聞く。 「――…ナナシ‥‥」 ふいに俺に覆い被さったままのアリーが言った。 俺は閉じていた瞼を開いて、ゆっくりと躯を起こすアリーを見上げる。 “なんだ”と言おうとして喉が引きつれたので軽く咳き込むと「無理すんな」と額に張り付いた前髪を 払いながら苦笑された。 何度かそのまま髪を撫でられ、何か言うことがあって呼んだんじゃないのかと俺が尋ねる前にアリーが 口を開く。 「俺、ずっとお前と一緒にいたい」 ドクン。また心臓の音が大きくなった。 「ずっと抱きしめていたい。いつもお前の顔が見ていたい」 そうだな。俺もずっとお前の側にいたい。だけど‥‥。 「遅くなって悪かった。ずっと決心できなくて悪かった」 それは俺だ。俺がいつまでもお前に未練を残していたから…。 「ナナシ。俺と一緒に暮らそう」 「アリー‥‥」 ――…いいのか、俺で‥‥っ。 「ナ、ナナシ!?ご、ごめん!悪ぃ!!どっか痛くしたのか!?」 アリーは慌てた声で俺の方へ手を伸ばす。急に泣き出した俺の涙をアリーの指が拭う。 「それとも…駄目、なのか…?」 表情を曇らせ、寂しい顔をするアリーの手に自分の手を絡ませた。 「――いいのか、俺で。俺は、お前の人生を散々狂わせてきたんだぞ…?」 「なんで!!いつも思ってたんだがな、むしろ人生を狂わせたのは俺のほうだ!!俺が中途半端な状態のま まお前に会いに行ったりしてたから…っ」 俺の涙が伝染したかのようにアリーの表情が歪む。 「俺…馬鹿だよ…。ただ好きだ好きだって言って、お前を幸せにしてやれること何もしてなかった…。 いつもお前のこと苦しませてたこと、気づいてなかった…!」 アリーの目尻に涙が浮かぶ前に、俺は両手を伸ばす。 「馬鹿…。本当にお前は馬鹿だな…」 アリーの頬に触れ、髪に触れ、抱きしめるようにアリーの躯を引き寄せた。 「ずっと苦しかった。俺はお前と一緒に暮らせないと思っていたから。でも、ずっと幸せだったんだぞ」 「なんで…」 「お前が毎日会いに来てくれたから。お前がずっと、俺を好きでいてくれたから…」 本当は離れたくない。二度と別れたくない。 「俺でいいのか…?これから先、お前と一緒に暮らす相手は、本当に俺でいいのか…?」 アリーのしっかりとした逞しい腕が俺の躯を抱きしめる。 「当たり前だろ!もうどこにも行かせない!!」 その言葉を聞いた瞬間、溢れ出した涙に視界がぼやけて何も見えなくなった。ただ強く強くアリーの背 中を抱きしめた。 -------------------------------------------------------------------------------------------- side-Aよりたぶん短め。なぜならこっちを先に書いたから。 台詞は同じで心象に変化をつけようとすると、後から書いたほうがこじつけが多くなって長くなっちゃ うんです。 もしも、アリーがプロポーズしていなかったらどうなっていたか。 ナナシさんは遠い外国へ何も言わずに旅立ってしまっていました。 でもきっとそうなってもアリーはナナシさんを追っかけて世界中を放浪することになると思います。 それで、Dさんと話してたんですが。 アリーは旅をするお金がなくなって弁当屋でアルバイトをすることになり、なぜかアルバイトの分際で 発案したホットケーキ弁当が大ヒット。 そこへホットケーキ好きとしては食べてみようと来店したナナシさんにびっくり遭遇。 ナナシさん、踵を返して猛ダッシュ。 アリー、エプロン翻して追いかける。 無理矢理に道路を横断したナナシさんに続いて、アリーも…というところですさまじいクラクション。 車のスリップする音。事故を目撃した人の悲鳴。 ナナシさんはパニックになって、顔を真っ青にしながら駆け戻る。 しかしそこには無傷で尻餅をついて、目をぱちくりしているアリーの姿。 ナナシさん大激怒。無理矢理追ってくる奴がいるか馬鹿!など…。 「だって…」と言おうとしてやめるアリー。 ナナシさんの怒声が小さくなり、やがて泣き声に変わった。 ぺたんと座り込むナナシさんにゆっくりと近づいて抱きしめる。 「だって、ここで捕まえなかったらまた会えなくなっちまうじゃねぇか。そんなの、俺は嫌だからよ」 「愛してる、ナナシ。帰ろう。そして、一緒に暮らそう」 あとがきで小ネタ書いてすいません(汗 2008/09/26 |