さいごに言えた言葉



深夜。ナナシの眠るベッドの脇に佇む黒い影。
パスッと軽い音がした。
ナナシは反射的に目を覚まし、ベッドの脇を見た。同時にじわりとした熱いものが左胸から滲み出し、
片手で押さえる。

「今度こそ、これで終いだ」

一瞬だけ雲が晴れた。月明かりが佇む人影の顔を映し出す。

「――…ア‥‥リー‥‥‥」

踵を返す影。ナナシは静かに目を閉じた。



  ◇



「ナーナシさん!起きてくださいっ!!」

カーテンを開けながらニールが明るい声で呼びかけた。うっすらと開く瞼。

「おはようございますナナシさん!!」

「おはよう、ニール坊や」

「えへへっ、俺初めてナナシさんを起こすかも…!」

「そうだったかな?」

はい!と、ニールは嬉しそうに頷く。ナナシも思わず笑みがこぼれた。

「あぁ、そうだニール坊や」

「はい?」

「俺宛てに郵便物が届いている筈なんだ。すまないが取ってきてくれないか?」

「いいですよ!」

ニールは小走りに部屋の扉まで行くと、柱に手を掛けて振り返った。

「二度寝しちゃ駄目ですよ!」

ベッドの中で手を上げてナナシは応える。ニールはそれを確認して屋敷の廊下を駆けて行った。
ナナシは手を下ろし、ぼんやりと窓の外を眺める。

「ありがとう…ニール坊や‥‥」

そうして再び瞼を下ろした。



一方、ニールはたまたま玄関で郵便物のチェックをしていたゲイリーと出会う。

「ゲイリー、おはよう!」

「あぁ、ニール坊か。おはよう」

「ナナシさん宛てになんか届いてないか?」

ニールに問われ、ゲイリーは手元の郵便物を一通り見てみるが「いや?」と首を振った。
ニールは首を傾げる。

「えー?おっかしいなぁ」

「なんだ?なんか来る筈だったのか?」

「あぁ。今ナナシさんに“届いている筈だから”って言われて取りに来たんだ。まぁいいや。部屋戻っ
 てそう伝えるよ」

「あ、俺も行くわ」

ゲイリーは手に持っていた郵便物を通りがかった使用人に渡し、ニールと一緒にナナシの部屋に向かっ
た。

「ナナシさーん、お手紙なかったですよー!」

「ナナシ、おはようさん!――…って寝てんじゃん」

「あーっ!!もう!二度寝しちゃ駄目だって言ったのに…!」

部屋に戻ると、窓際に置いたベッドにはニールが出て行った時と同じ体勢のままナナシが目を閉じてい
た。
ニールは頬を膨らませてベッドに近づくと掛け布団を掴む。

「ナナシさん起きて!!」

バサッ!とニールが掛け布団を開けた。

「え」

「!?」





ナナシは左手を胸に当てて横になっていた。





その手と服は真っ赤に染まっていた。





「ナナシ!?」

ゲイリーが駆け寄って呼びかける。まだ息があるのを確認し、モレノを呼びに走った。
すぐにモレノを連れて戻ってきたゲイリー。騒ぎを聞きつけ、部屋にはライルも来ていた。

「モレノさん、ナナシさんは…!?」

ニールが涙目でモレノを見上げる。モレノは無言でナナシの傷の具合を探った。



そしてやがて、首を横に振る。



「すまない…」

「!!――やだやだ!!なんとかしてライル!お前そういう品物取引してないのかよ!!」

「ニール‥‥」

泣き叫びながらすがりつくニールの手をライルは震えた手で握り返す。
その二人の横を通り過ぎて、ゲイリーはそっとナナシの体を抱き上げた。

「ゲイリー!なにしてんだ!!」

「ん、ちょっと、海でも見に」

「なにふざけたこと言ってるんだよ!!」

ゲイリーは壁に掛かっていた上着をナナシの肩に掛け、抗議するニールを無視して扉の前まで来る。

「ゲイリー!!」

漸くニールの声に反応するゲイリー。彼は寂しげな笑顔で言った。

「――…コイツさ、たぶん、お前らに死ぬとこ見られたくないと思うんだわ…。だからニール坊に嘘の
 用事頼んだんだと思うわけよ…」

ニールとライルはナナシを見る。ゲイリーは静かな声で続けた。

「だからさ、最期まで一緒にいたいだろうけど、ここは見送ってやってくれねぇかな…」

ニールはゆるゆると首を振り、やがて強く首を振った。

「いつも通り、“行ってらっしゃいのキス”してやってくれよ…」

「やだ‥‥嫌だ!!」

「ニールがしないなら俺がする」

「ライル!?」

ライルはゆっくりとゲイリーに近づくと、ナナシの唇にそっとキスをする。

「――…行ってらっしゃい、ナナシ‥‥」

ナナシの頬には既に血の色がない。
ライルは名残惜しそうに、触れたナナシの頬から手を離した。
慌てて駆け寄ったニールもまたナナシの唇にチュッと音を立ててキスをする。

「――…行って…らっしゃい‥‥っ。行ってらっしゃい、ナナシさん…!!」

離れたニールの目からはとめどなく涙が溢れた。隣に立つライルも唇を噛んで嗚咽を堪えていた。

「ありがとな、ライル坊、ニール坊。墓参りにはいっぱい来てやってくれよな」

ゲイリーはそう言って部屋を後にする。
ライルとニールは抱き合ってその場に座り込むと、同じ声を上げて泣いた。

やがて二人は気づく。



―――墓参りにはいっぱい来てやってくれよな



「“来てやって”って…ゲイリー…?」

ニールの呟きに立ち上がったライルは転びそうになりながら部屋の外に出る。
廊下には点々と血の跡が残っている。
それは勿論、ナナシの血だろう。
けれどもう一つ、何故かナナシの愛用していたナイフが転がっている辺りから新たな血の跡が続いてい
た。

「う、そ…だろ‥‥?」

呆然と呟いたライルの後ろからニールが顔を出す。

「ライル?」

ライルは膝の力が抜けてその場に座り込んだ。強く床に拳を打ちつける。

「うそ、だろ、ゲイリー…。――…ざけんな‥‥ふざけんなよぉっ!!」

「ライル!!」

めちゃくちゃに拳で床を殴るライルの体をニールはぎゅっと抱きしめる。

「――…か、やろ‥‥ばかやろうっ!!」

ライルはさっきよりもひどく涙を流した。
ライルの背に顔を押しつけたニールも同じように泣き叫んだ。



  ◇



右の胸から血を流し、ゲイリーはある場所に向かって車を走らせていた。
助手席にはまだかろうじて息のあるナナシが眠るように座っている。
ソレスタルビーイングがアジトにしている屋敷からはかなり遠くまで来た。左手には海が見え隠れして
いる。
やがて浜辺に降りられる場所で車を停めると、ナナシを抱いて砂浜に降りて行った。

「よっこいせ、っと…。へへっ、年寄りみてぇ」

砂浜に降りると適当な所に腰を下ろす。ゲイリーはクスクスと笑うと、ナナシにも海が見えるように抱
き直した。

「よぉナナシ、見えるか?俺とお前が出会った海だ。ここはあの場所じゃないが、でも似てるだろ?」

ゲイリーが話しかけても、ナナシの閉じた瞼は上がらない。
それでもゲイリーは言葉を止めなかった。

「俺、お前と出会えてよかったわ。だってよ、俺お前と会ってからの人生が一番楽しかったもんよ」

ナナシと出会う前までは、クローンに生まれた自分を悲観した。
やがて人生というものを達観するようになり、死ぬことを待つようになった。
けれどナナシに出会い―――自分を必要としてくれるナナシに出会い、ゲイリーは生きることを望んだ。
今まで受け入れるつもりだった死を拒み始めた。

「クローンは短命だ、って言われて、でもお前とずっと一緒にいたいから“生きたい”って願ってた」

ナナシの頬にぽたり、と滴が落ちた。

「なのにお前…死ぬのかよ‥‥。俺を生かせようとしてた、お前が…!!」

ゲイリーは一滴、また一滴と涙を落とす。

「俺も、連れてけよ…。ほら、お前のナイフ借りて、俺も紅くなってきたから‥‥」

ゲイリーの胸の傷は己で刺した割に深い傷だった。
―――彼の命もあと数分だろう―――。

「――…か、…な‥‥」

ナナシの唇が動いて言葉を発した。

「ナナシ!?」

「――…ば、か…だな‥‥。わざわざ、俺と一緒に、死ぬ、なんて‥‥」

「へ、へへっ…!俺が馬鹿なのは今知ったわけじゃねぇだろ!」

「ふ…たしかに‥‥」

ナナシは微かに口角を上げ、そして瞼を開くと海の方を見た。

「――…ゲイリー…」

「うん?」

ほんの少しだけゲイリーの方に体重がかかった。

「ゲイ、リー…。お前…と、出会えて…よかっ、た‥‥」

ゲイリーは血で汚れていない手でナナシの頭を撫でた。

「あぁ、俺もだよ、ナナシ」

「俺、は‥‥しあわせ、だ…」

「俺も。今まで生きてきた中で一番幸せだった」

ナナシは心地よさそうにゲイリーに体を預ける。そうしながら、最期の言葉を告げる体力を集めている
のかもしれない。
やがて波音に消えてしまいそうなくらい小さな声でナナシはゲイリーを呼んだ。

「ん?」

ゲイリーは少し顔を離してナナシを見た。
ナナシは今までで一番素敵な笑顔で、ゲイリーを見て微笑んだ。



「あ、い…して、る‥‥」



「ナナシ‥‥!」



初めて見た愛らしい笑顔で、

初めて真っ直ぐに気持ちを伝えてくれた。



「ゲイリー…、愛して…る‥‥」

「ナナシ…!ありがとう、俺もナナシのこと愛してるぜ…!!」

ゲイリーはきつくナナシの体を抱きしめた。
耳元でナナシの声がする。抱きしめた肩がナナシの涙で濡れた。

「うれ、しい…。あい、して‥‥、…ゲイリ‥‥‥――」

スッ、とナナシの呼吸が止まった。
ゲイリーはきつくきつくナナシの体を抱きしめながら涙を流した。けれどその視界は、ナナシの笑顔を
見たのを最後に、もうとっくに霧の世界しか映さなくなっていた。

「大丈夫…、大丈夫だからな。ちゃんと、あの世でも一緒にいるからな」





ナナシはたくさんの人を殺した。
だからきっと、死んだら自分は、ゲイリーと同じ場所に行けないと言っていた。
けれどゲイリーは誓った。
例え死んでも、必ずナナシの傍にいると誓った。



―――誓うけどさ、あんま死ぬ時の話とかすんのやめようぜ

―――…そうか、そうだな‥‥



今、二人の命が尽きる。



「ナナシ‥‥、お前を一人にはしない…」



「『愛してる』」





ライルとニールが捜しに来た砂浜で、



ゲイリーとナナシは重なり合うように身を寄せ合って、



覚めることのない永遠の眠りについていた―――






2008/06/16

BACK NEXT