誰にも言えない秘密の泣き言 1




初めて彼を見たのは私が店で勤務中の時だ。
夜の十時過ぎ、残業上がりのサラリーマンや、あるいは二次会をしっとりやろうという人間のやってく
る時間。
その日はあまり客がおらず、カウンター席に座っていたのは常連の若い会社員二人組と、いつもなら必
ず連れのいる中年の会社員が一人。興味本位と暇だったことを理由に私はその客に話しかけた。

「こんばんは。今日はお一人なのですか?」

中年の会社員は私を見上げて、傾けていたグラスを置く。

「待ち合わせをしているんだよ。十時までは予約が入ってるからその後で会おうと言われてね」

その男性と特に親しかったわけでもなく、今までにこちらから話しかけたことも一度もなかった。彼に
必ず連れがいたからというのも理由の一つだが、その連れというのがいわゆる風俗業の女性たちで、な
んとなく近づきがたかったのだ。直接店の名前を聞いたわけではないが、バーテンダーという仕事を始
めてかなり日は経つ。グラスを拭きながら様子を見ていれば、職業くらいはだいたい予想がつく。たと
えばこの男性は、普段の羽振りの良さや人事を匂わせる話の内容から会社では重役の地位にいることだ
ろう。

「十時というと……、もういらっしゃる頃ですね」

「彼をこの店に呼ぶのは初めてだからな、迷っていたら大変だな」

“彼”というと、今日は仕事のほうでの待ち合わせなのだろうか。ということは同じように重役の会社
員か。
そんな思考を巡らせていたらドアベルが控えめに来客を報せる。私はそちらへ視線を向けて、入ってき
た人物にまずは会釈をした。
新たにやってきた客は男でまだ若く、茶色の髪をふわふわと揺らし、翡翠の双眸で店内を見渡す。服は
グレーの、これまたフワフワしたコート。ワイシャツの襟は少し覗く程度で、一瞬何も着ていないので
はとギョッとする。どこからどう見ても会社員のようには見えない。
しかし目の前に座っていた男性は、私の予想に反して軽く手を挙げて彼を呼び寄せた。

「アイル、こちらだよ」

アイルと呼ばれた青年はパッと表情を変え、微笑を携えて会社員の隣のカウンター席へ腰掛ける。

「悪ィな、遅くなっちまって」

「迷ってしまったのかと心配していたところだ。前の客が延びたのかな」

男は青年に向かって手を伸ばすと、スルスルと太ももをさすりながら、もう片方の手をカウンターに乗
せた青年の手に重ねた。
青年はその行為に不快な表情を浮かべる様子もなく、むしろ今まで刻んでいた笑みの形を変え、妖艶な
微笑みを浮かべて男の方へ体を傾けたではないか。
急にむせるような色気の増したその空間に耐えきれず、青年に出すグラスを用意するふりをして少し離
れた場所へ移動する。それでも一度耳についてしまった声はなかなか離れない。

「だぁいじょぶだよ。アンタを待たせるのは心苦しかったけど、ちゃぁんと体中きれいにしてきたから」

―――何回でも付き合えるぜ……。

青年は声を潜め、男の頬に唇を触れさせながら言った。おそらくこの店内で今の青年の声を聞き取れた
のは、耳打ちされた男と、無意識に聞き耳をたててしまっていた自分しかいないだろう。
世の中には同性に性的行為や愛情を求める人間もいると知ってはいたが、まさか実際に目にするとは思
わなかった上に、初めて見た相手の片方がこんなにも自然と同性に対して妖艶に振る舞えるのかと、驚
嘆してほんの僅かな時間、青年の透けるような肌に目を奪われた。
それから彼らは一杯ずつカクテルを飲み、夜の街へと消えて行った。


 ◇◆◇


翌週、私は出勤前に駅から風俗店街へ続く道の途中で再び彼と出会った。
彼、アイルと呼ばれていた青年は年端もいかない少女に真剣な表情で何かを訴えていた。
少女は初め、彼の話をうざったそうに聞いていたが、やがて真面目に耳を傾けるようになり、最後には
心洗われたような表情で駅の方へ歩いていった。
彼は安堵の表情を浮かべて少女を見送ると、くるりと踵を返す。ちょうどその時、一部始終を眺めてい
た私と目が合った。

「……、何か‥‥?」

「(警戒されてるなぁ……)」

客を相手にしている時と、そうでない時ではこうも違うものなのだろうか。今こちらを向いて怪訝な表
情をしている彼はどこにでもいる普通の青年だ。
私は少し彼のほうへ歩み寄りながら、少女の去っていった駅の方を見る。

「何を話していたんだ?この間、店に来た時とはまるで雰囲気が違っていたから驚いた」

「店……?あぁ、あのバーテンさんか。なに?アンタも俺に色目使ってほしいの?」

「残念だが、いま手持ちがないんだ」

まったく残念でなさそうに言うと、私にその気がないのがすぐにわかったのか、あの日の夜のように移
り変わりかけていた空気が元に戻っていった。

「それで?まさか店に誘っているようには見えなかったが……?」

私がさっきの少女のことについて再度尋ねると、彼は苦笑を浮かべながら答えてくれた。

「あの子、まだ十五になったばかりだってのに、親と喧嘩して家出してきたんだってさ。家出して三ヶ
 月、金も行く場所も尽きて、売春しようとしてたから説得してた。ただの喧嘩ならちゃんと仲直りし
 なさい、ってよ」

「それで納得して帰っていたという訳か。さすがは客商売をしているだけあって、説得が上手いんだな」

「んだよ、それ。褒めてくれてるつもりか?」

アイルに指摘され、彼のしている“客商売”というのがあまり表立って言えない違法なことも行う仕事
だと失念していたと気づき、慌てて謝罪する。

「いいよ、別に。だけど、たぶんあの子が考え直してくれたのは、俺の必死さが伝わったからかもしれ
 ないな」

「“必死さ”……?」

アイルの浮かべる笑みが苦笑から自嘲へと変わっていく。

「俺、家族いなくてさ。あの子と同じくらいの歳からこういう仕事してんの」

風が吹き、アイルの表情を彼の長い髪が隠す。

「今でも家族は恋しい。こんな仕事して生きて、ちゃんと働いてる人の前じゃ情けなくて立ってらんな
 い」

目の前に彼はいるのに、表情は見えない。だが、聞こえる声からは強い悲しみの感情が伝わってきた。

「あの子の目はまだ輝いてた。きれいな目をしてた。だから、ちゃんと胸張っていける所で生きてて欲
 しいと思ったんだ。その必死さが伝わったのかもな」

風が止み、やっと見ることのできた彼の表情は笑っていた。その目尻に涙の跡を残しながら。
彼は私に涙の跡が気づかれていないと思ったのだろう。そのまま笑って私の肩を叩いた。

「こんな話、贔屓にしてくれる客にも、雇ってくれてるオーナーにも話したことねぇぜ。アンタがまと
 もそうに見えるからかな」

強がる彼に合わせて、私は気づかないふりを続けたまま笑みを返す。

「私も、君が真面目に話してくれるとは思ってなかった。適当にはぐらかされるのではないかと思って
 いたよ」

「はぁ?じゃあなんで訊いたんだよ」

「さぁ?私にもわからないな」

数秒の間。アイルは呆然と私を見ている。

「‥‥‥っく、くくっ…」

何も言わずに待っていたら、ふいにアイルはうつむき、肩を震わせる。続いて顔を上げた彼は私の肩を
バンバン叩いて大笑いした。

「…くっ、あははっ!なんだそれ!自分のことだろ!?わけわかんね!」

「そんなに笑うことだろうか」

「笑うって!少なくとも俺にはウケた!……はぁ、そっか。俺がこんな話したの、アンタが普通じゃな
 いからだったんだな」

ひとしきり笑うと、アイルは私を見て言った。

「そういやアンタ、名前は?名札とかつけてなかったよな、バーテンさん?」

ウチの店ではネームプレートを着ける決まりはない。アイルの言葉に頷きながら私は答えた。

「私の名前はクラウスだ。君はアイルでよかったかな……?」

「え、あー……うん。そっちでいいや。俺もうきっと、本名名乗れるようになったりはしないから」

「本名ではないのか」

「昔はAV専門だったの。そん時の芸名のほうが有名だから今もそっち使ってるんだ」

芸名が根付いてしまうほどの高い人気が彼にはあった―――今でもあるのだとその時私は悟る。
それだけ人気があるのならおそらく相当な稼ぎをもらっているのだろう。だが、少女に話していた内容
を聞いたり、名前のことを聞いた時の彼の表情や声の調子から察するに、彼は今の仕事をしたくてして
いるようではなかった。

「アイル……、君は今の仕事をやめる気はないのか」

何も繕わず、率直に尋ねてみる。彼は目を見張り、やがてすがめた視線で私を見た。

「俺にはこの仕事しかないんでね。これだけ長くこっちの世界にいたら、抜け出したくても抜け出せ
 ねぇ」

声が途端に冷たくなった。さっきまでとは違う。どことなく、客を相手にしている時の彼を思わせる。
アイルの答えに私は彼の本音を見いだし、更に問いつめた。

「――と、いうことは、やめられるものならばやめたいと思っているんだな」

「っ!!」

アイルは私の体を突き飛ばすと、キッと鋭い目つきで睨みつけた。

「アンタに何がわかんだよ!今の仕事がなくなっても他に生きていける手段のある奴に、俺の何が!!」

「アイル、私は……」

「うっせぇよ!もうアンタと話すことはねぇ。――仕事の時間だ。俺にはこの仕事しかないんだから、
 遅刻する前に行かせてもらうぜ」

彼に伸ばした手は冷たくなった彼の手に振り払われ、あっという間に雑踏の向こうへ姿を消してしまっ
た。アイルの怒声に周囲の目がちらちらと自分に向けられるようになったことに気づき、私も自分の店
へと足を向ける。


怒り出す前の、彼が一瞬だけ見せた今にも泣きそうな表情。
それが彼の本音だとわかっていながら、それ以上かける言葉の見つけられなかった自分に、なにか苛立
ちのようなものを抱いていた。


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微妙な感が拭えない……!!
ライルが爆笑した理由も、クラウスさんがどうしてそんな風に思ったのかっていう理由も、自分的には
あまり上手い理由にできたとは思えないんですが、それでも上げちゃいました。
このクラウスさんはライルよりも年上という設定です。これを書いてた時はまだ、ライルと同じ年だと
知らなかったので、てっきり年上だと思ってたんです。
秘密シリーズのクラウスさんは脱サラバーテンダーだぜ!

2009/10/18

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