生きていく道



葵はゆっくりと目を覚ました。
白い天井と見慣れぬ窓の外の風景に、ここが病院だったと思い出す。
軽い目眩を覚えつつ起き上がると、ちょうど病室の扉がノックされた。

「はい」

返事をすると、紙袋を二つ持った雪菜と静音が顔を覗かせる。

「悪かったな。着替えなんて取りに行かせて……。すぐわかったか?」
「綺麗に畳んでしまってあったから。掃除や洗濯は葛がやっているんでしょう?」
「俺だってたまには風呂掃除くらいはするさ」
「たまに、なのね」
「あ……」

雪菜と静音はクスクスと笑みを漏らす。
着替えの入った紙袋をベッドの脇に置き、雪菜は葵の隣のベッドを見て言った。

「葛は……?まだ目を覚まさない?」

そこには青白い肌をした葛が点滴を受けながら眠っている。あの惨事から三日。一度も目を覚まさないが、
なんとか一命を取りとめた。

「あぁ、まだだ……。俺が退院する前に、目覚めてほしいんだけどな……」
「そういえば、体の調子は……?」
「まだ軽い目眩はするが、もうほとんど大丈夫だ」
「そう、よかったわ」

雪菜と静音は胸を撫で下ろす。
葵もまた左手の手首に点滴の管を通していた。

「あの時は本当に、もう駄目かと思ったわ」
「貴方が彼を救ったのよ。総一郎」
「いや、そもそも俺が正気を失ってなければ……葛をこんな目には遭わせなかったんだ」

葵の表情に影が落ちる。
眠る葛の首には真っ白な包帯が厳重に巻かれている。医者は綺麗に縫合できたと言ったが、それでも傷跡
くらい残るだろう。
葵は自分の両の手を見つめた。
自分はこの手で彼を殺そうとした。何が原因で自分はおかしくなってしまったのか。考えてもわからない。
ただ、なんとなく思うのは、静音が死んだと聞かされた頃から自分は少しずつ狂っていったのではないか
ということ。そして高千穂の一件が片付き、平穏な生活に戻れるとなった時、頭のどこかで静音を失った
時のことを思い出したのだ。

――二度と奪われてなるものか。

狂った自分はそう思ったらしい。だから大事な人が運命に奪われる前に、自分のものにしてしまおうと思
ったのかもしれない。
それが心中という行為に繋がった。葵はそう分析した。

「悔やんでも悔やみきれない。もしも葛があのまま死んでしまっていたら、俺は本当に狂ってしまってい
 た」
「危ない状況だったのは確か。だけど、彼を救えたのが貴方のおかげだったことも確かよ」

静音の言葉に葵は影を帯びた表情のまま笑った。


 ◇◆◇


出血多量で病院に運び込まれた葛は、すぐに輸血処置を受けた。しかし、

「血が足りない!?」

病院の廊下に葵の声が響く。医師は困った様子で言った。

「足りない、というより“ない”んですよ……」
「それなら私の血を使ってください!私も彼と同じA型です!!」

雪菜が前に進み出る。しかし医師は首を振った。なぜ、と雪菜は詰め寄る。

「A型はA型でも、彼はRHマイナス型なんです。一応、あなたの血液型も調べさせていただきますが、
 おそらくは……」
「そんな……一―」

RHマイナス型は非常に稀少な血液型だ。輸血のためのストックがないのも理解できる。理解できるが……。

「このまま……彼を見殺しにするしかないというの……?」

静音が呆然と呟いた。雪菜も表情をなくしている。
葵は全身に葛の血を浴びた状態のまま、真っ赤に染まった両手を見つめた。その手は未だ震えが治まって
いない。
やがて彼は医師に向かって問う。

「……O型からA型へ輸血ってできますか?」

医師は戸惑いながら頷く。

「可能です。けれど、それにはRH型の一致が必須ですが……」

葵は震える手を静かに握りしめた。ゆっくりとその手を開いた時には、震えは止まっていた。

「俺の血を使ってください。俺はO型のRHマイナスです」

検査の結果、葵の血が葛へ輸血可能だとわかったので、すぐに処置は開始され、葛はなんとか一命を取り
とめた。
葵はギリギリまで血を提供したので同じく入院することになり、まだ貧血の症状は残っていが、今は意識
ははっきりしていた。
自分の血が役に立ったことで幾分救われた。けれど、本当ならばこの身体に流れる血をすべて与えてもよ
いとさえ思っていた。
愛する人を殺そうとして、自分はのうのうと生きているなんて、葵は許せなかった。

「歩けるようなら、少し散歩でもしてきたら?気分転換も必要よ」
「そうね。葛のことは私がみているから、中庭にでも行ってきたら……?」

鬱々と考え込む葵に気づき、静音と雪菜が提案する。葵は迷った。
確かに自分は気分転換が必要かもしれない。けれど、自分が目を離した間に葛の容態が急変したら今度こ
そ正気に戻れないだろう。

「ありがとう。けど俺はこいつのそばに……」

そう言って隣のベッドを見た葵は息を呑む。眠っていた葛の表情が動いたように見えたのだ。

「葛……?」

ベッドから乗り出し、床に足をつけると、葛の瞼がゆっくりと上がって深緑色の瞳がゆるりと葵を見つけ
た。

「あ……お……」

掠れた声で葵を呼ぼうとする葛を制し、葵は目覚めたばかりの彼の目に太陽の光が負担にならないように
ジャッとカーテンを引いた。

「喋るな。雪菜、水だ。静音は先生を呼んできてくれ」

二人は頷いてすぐに病室を出ていく。
起き上がろうとする葛の肩を葵は慌てて押さえた。

「まだ無茶するな。お前、出血多量で死ぬところだったんだぞ」

目眩もするのか、表情を曇らせて横になる葛の額を前髪を払うように撫でる葵。

「――そうさせちまったのは、俺なんだけどな……」

静かにまばたきを繰り返す葛。右手を伸ばそうとして、その手を葵に取られた。かなり強く握りしめられ、
葛は己の右手から葵の両手、そして彼の表情へと視線を移す。
葵は泣いていた。
葛を抱きしめるようにベッドへ覆い被さると、声を上げて泣いた。

「すまなかった……!謝って済むことじゃないのはわかっている。それでも俺は何に代えてもお前に贖罪
 しなければならない……!!」

葵の熱い涙が薄い寝間着を濡らす。
葛はぼんやりと自分の左手を目の前にかざした。点滴の管がぶら下がっている。泣いている葵も同じよう
な点滴をしていた。
葛は葵の背に触れる。それから肩に触れ、腕に触れ、頭に触れた。

「葛……?」

顔を上げた葵をまじまじと見つめ、葛は葵のこめかみを探りながら掠れた声で問う。

「おまえも、どこか、怪我を……?」

寝間着姿の葵を見て、彼も入院中であることはすぐにわかった。
葛は、葵が自ら命を絶つことを止められなかったのかと泣きそうになる。
けれど葵は小さく首を振って、葛の右手を自分の心臓の真上に持ってくる。どくんどくんと葵の鼓動が手
の平から伝わってきた。

「お前の分の輸血量を確保するために血を提供した。俺とお前ではA型とO型の違いがあるから回復に時
 間はかかるかもしれないけど」
「……おまえの、血を……?」
「あぁ、そうだ」

葵は今度は葛の手を彼の胸の上に置く。しっかりと脈打つ鼓動は葵が救ってくれたものだ。

「――そう、だったか……。感謝する」

僅かに笑みを浮かべてそう言う葛。葵は反射的に表情を歪めた。

「感謝なんて……。俺はお前に責められて当然なのに……」

葵を見上げ、葛はほっと息をつく。そんな彼を葵は怪訝な目で見た。
葛は言う。

「元に戻ったんだな……」

葵はきゅっと唇を結び、葛を抱き締めた。

「――あぁ。今まですまなかった」
「謝るな。あのお前も嫌いではなかった」

ニコリと微笑む葛にますます申し訳なくなって、葵はまた泣きそうになる。
抱き締めた腕の中に見えるのは真っ白な肌に真っ白な包帯。この傷をつけたのは自分だ。この命を奪おう
としたのは自分だ。
死のうと迫る自分を拒むことは容易かった筈。なぜ葛は何も抵抗しなかったのか。

「どうしてお前は、狂っちまった俺の言うことを拒まなかったんだ。正気じゃないのをわかっていて、ど
 うしてお前は……」

葛は腕の中でゆっくりと手をついて、ベッドの上に起き上がる。その助けをしてやり、彼の透けるような
肌を見つめていると、そっと唇に唇が触れた。

「葛……」
「お前に恩返しがしたかったんだ」
「“恩返し”?待てよ、俺は何もお前に恩なんて売ってない……」
「いや、俺はお前に救われた。だからお前が望むものを叶えてやりたかったんだ」

幼い頃からそれが当然と思っていた軍人の道が絶たれ、未来を見失っていた自分。
桜井機関で自分の居場所を見出だそうと努力したが、スパイ活動は自分の理想とはかけ離れていて未来な
ど見えなかった。
死んでしまいたいと思った上海の夏。西尾に会って、自分も死線を走って夢を叶えたいと思った。
それを押し留めさせたのが目の前の男。
葵は何かにつけて葛を気に懸けた。それは仲間というよりどこか温かで、胸が苦しくなった。
葵は葛を愛した。愛して、死にたいと思っていた葛を変えた。
葵と共に過ごした時間の中で、葛は役割のために生きるのではなく、自分や誰かのために生きることを知
った。
葛もまた葵を愛した。愛して、生きたいと思えるようにしてくれた葵に感謝した。

「だから、俺はお前が望むものはすべて叶えてやろうと思ったんだ。一度は死のうと思ったこの命。お前
 の為に使うのならば本望だった」

葛は微笑む。葵は深くうつむいて唇を噛んだ。葛を手に掛けようとしていた自分を殺してしまいたい。

「葵……?」

葛が葵の肩に触れる。葵は彼の手を掴んで抱き締めた。先ほどよりも強く、激しい怒りを含んで。

「ごめん!葛、ごめんな!!ごめんっ……ごめん……っ!!」

葛はもう「謝るな」とは言わなかった。ただ黙って葵の謝罪を受け入れる。
おそらく葵の中は今は自分自身に対する憎悪でいっぱいだろう。今にも自分を殺してしまいたくなるよう
な、激しい憎悪で。
けれど、彼はもうわかっている筈だ。自分が死んだらこうして生き延びた葛が悲しむと。
葛は葵が落ち着くまで待った。そうして、彼は葵の腕に抱かれたまま尋ねた。

「葵、記憶はあるのか?」
「……?ある、ぜ。一応」

できることなら、すべて夢にしてしまいたい悪夢のような狂気の記憶。葵は戸惑いながら頷いた。
葛は言う。

「それなら、もう一度聞きたい。いつも言ってくれた、あの言葉を……」

葵はこの一年の記憶をさらう。印象に残っているのは『一緒に死のう』というあの言葉。けれど、葛が聞
きたいのは違うだろう。
葵は考えた。答えはすぐに出た。

「好きだよ、葛。愛してる。天国に行こうが地獄に行こうが、永遠に愛し続ける……」

合っているだろうか。窺うこともなかった。
深緑の瞳が柔らかく笑っていた。
葵はどこか救われた心地になる。
葛の顔を引き寄せると、彼は葵の意図を察して静かに目を閉じる。
葛の唇は少し冷たかった。けれど、そこに葵の体温を乗せるほど深く口づけを交わす。
長い長い口づけの後、葵は言った。

「好きだ、葛。来世もお前を愛する自信があるけど取り敢えずは……」
「……?」

葵は照れたようにはにかむ。今更だな、と思っていた。

「取り敢えず、お互い爺さんになるまで一緒に居てくれないか?」

葛はクスッと笑みを漏らし、小さく首を傾ける。葵の生気に満ちたまだまだ若造の面持ちがどのように老
いていくのか想像したらおかしくなってしまった。
そんな先のことなどわからない。それでも葛は葵の瞳を見つめて答えた。

「よろこんで」



自分たちに絡み付いていた黒いしがらみはまだ、完全にはなくなっていないかもしれない。
けれども、確かにいまこのとき、二人の間に新しい道が始まった。




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お待たせしました、完結です。
ヤンデレ葵さんと、葛さんの希少な血液型のネタをやりたくて、ここまでやってきました。葵さんがRHマ
イナスなのかはおいといてください(苦笑)

葛さんの首筋に傷痕が残るとか考えると、なんかちょっと色っぽくもあり、痛々しくもあり、葵さんがそ
れを見て表情を曇らせるとかいう考えもあり、色々おいしいです(おま

とにかく、ここまで読んでくださった方、ありがとうございましたv

2011/05/02

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