やさしい愛情



それは、とある昼下がりの出来事。
葵が昼寝から起きて階下に降りてくると、ちょうど葛が接客しているところだった。

『枚数はそれほどないと思うんだが、今晩までにこの写真が必要なんだ。頼めるか?』
『わかりました。日が暮れる頃には仕上げておきましょう』
『助かる!それでは、また後で』
『お預かりします』

中国語でのやり取りが終わり、客が出て行くのに呼応して店のベルが鳴った。

「客か?」

階段を下りながら声をかけると、葛がカウンターから俺を見上げる。

「聞こえていなかったのか?今晩までにこのフィルムを現像してほしいそうだ」
「随分と急なことで」
「俺たちがどうこう言うことじゃない。――俺は今から現像作業に入るから店番をしていろ」
「はいはい……」

カウンターの後ろにある扉からフィルムを持った葛が出て行くと、俺は空いたカウンターに入った。
テーブルの上の注文票には既に必要箇所に記入がされており、あとは引き渡しのサインを残すのみとなっ
ていた。客の応対をしながら、ちゃんと書類を仕上げておくところは流石だ。
俺はそれに穴を開けて台帳に挟むと、カウンターの中の椅子を引いて腰かけた。すると、カウンターの台
の影になって隠れていたものに気づいた。

「なんだ……?」

俺はそれを手に取り、引き出す。
それは万年筆と封筒、そして書きかけの便箋が一枚。



『拝啓  暑さも和らぎ、過ごしやすい季節になってまいりました。お祖母さまは如何お過ごしでしょうか。
 便りも満足に送ることのできない不出来な孫をお許しください。さて、…………』



思わず目を通してしまってからハッとする。

「……って、なに盗み読みしてんだよ!」

むなしいツッコミも、一通り読み終えてからでは時既に遅い。
どうやらこの手紙は葛が自分の祖母に宛てたもので、近々、彼の祖母が誕生日を迎えるらしかった。

「(勝手に読んだってわかったら、アイツ絶対に怒るよな……)」

しかし、黙っているというのも葵にとっては難しいことのような気がした。
結局、正直に謝ることにして、葵はカウンターに頬杖をついた。
葛が暗室に籠ると言ってすぐに戻って来なかったところをみると、彼も手紙のことを忘れたまま現像作業
を始めてしまったのだろう。

「お祖母さまの誕生日、か……。アイツ、おばあちゃん子だったのか?」

てっきり父親譲りの頑固者かと思っていた。女親の祖母を慕って、よく甘えん坊にならなかったものだ。

「まぁ、アイツが甘えん坊っていうのもなんだか不気味だが……」

くっくっ、と笑ってから、何気なく写真屋の台帳に視線を落とす。パラパラとめくると、自分たちの筆跡
違いがよくわかる。
汚いわけじゃないが、簡潔に“読むこと”だけを目的とした葵の文字に対し、几帳面な葛の文字はトメ、
ハネ、ハライが意識されたやけに整った文字だ。
その文字を眺めているだけで、なんとも愛しい気持ちが溢れてくる。

「(重症だな……)」

そう思って、葵は大人しく店番を続けた。手紙を盗み読みした謝罪を考えながら――。



  ◇◆◇



夕方になってようやく暗室から葛が出てきた。

「お、お疲れ……さん」

カウンターから振り返った葵は、いつになく真剣な表情の葛に思わずたじろぐ。

「あ、あー……。あのな、葛……」
「読んだのか」
「う、あー……うん。ごめん」

居眠りもせず真面目に考えた謝罪文が微塵に砕けていく。
素直に項垂れるしかない葵の目の前を通り過ぎて、葛は現像した写真を入れた封筒を置く。その代わりに
書きかけになっていた便箋を手に取った。

「いや……俺にも落ち度はある。片づけずにカウンターを離れた俺も悪かった」

どうやら暗室から出られなかった時間が彼の頭を冷やす時間にもなったらしい。自分への後悔と盗み読み
されたことの怒りが入り混じってなんとも複雑な表情をしてはいたが。

「えっと……。あの、お祖母さんの誕生日が近い、のか?」
「――あぁ」
「プレゼントとか送らないのかよ」
「貴様、ここが日本ではないことを忘れていないか?上海から海を越えた遠い日本まで、無事に届くとは
 思えない」
「けど、慕ってるんだろ」

葵の言葉に、葛は小さく眉間にしわを寄せた。
あれ、違うのか?葵が首を傾げそうになったのを遮るように葛は口を開く。

「慕うどころか尊敬している。給金が出てから初めての祖母の誕生日に、日本を離れているという理由だ
 けで何もできない自分が情けない」

ああ、なんだ。と葵は拍子抜けする。葛が眉間にしわを寄せたのは葵の言葉が気に入らなかったからでは
ない。自分に苛立っていたのだ。

「その気持ちだけでも充分おばあちゃん孝行してると思うぜ。そんなに気に病むなよ」
「だが、お祖母さまは……、祖母は今も一人で、俺が功績を上げることを待っている。それなのに……」
「悪く考えすぎるのもお前の悪い癖だ。それとも、お前のお祖母さんはそんなに厳しい人なのか?」
「厳しい。女手一つで俺を軍学校に通わせ、ここまで育ててくださったのはお祖母さまだ」

葵は思わずうんざりした表情になった。

「(つまり、葛の性格そのままの婆さんってことか……。って、ちょっと待てよ?)」

葵は首を傾げ、葛を見る。

「なぁ葛、気を悪くしたら謝る。お前もしかしてご両親は……」
「物心ついた頃には亡くなっていた。祖母が俺の親代わりだった」
「そう、だったか……」
「気にするな。珍しいことではない」

葛は義理堅い男だ。だが、それ以上に今、祖母の誕生日について話をしている彼は……、

「――祖母は……厳しいが、とても優しい人だった」

義理とか恩ではない。心から祖母を慕っているのだろう。
葵には、葛がほんの少しだけ微笑んだように見えた。思わず伏せた横顔を凝視してしまって、それに気づ
いた葛は怪訝な顔をする。

「なんだ……?」
「いや、孫がこんなに立派に育って、お祖母さんも嬉しかっただろうな、ってさ」

四君子堂写真館に来て初日。『俺にも感情はある』と言いながら怒りや後悔、嫌悪など、マイナス方面の
感情しか見せてくれなかった男が、こうして誰かを慕っている姿を見ることができて、葵は嬉しく思った。
いま目の前にいるのは、ただの同い年の男だ。とても親孝行者の。

「よし、葛。明日はお祖母さんのプレゼントを買ってこい。俺がなんとかしてお前の実家にそのプレゼン
 トと手紙、届けてやるよ」
「どうやってだ。お前も俺も、桜井機関の諜報員として勝手に上海から離れられない身なんだぞ」

葵はちっちっち、と指を振ると自信に満ちた目で葛を見た。

「俺のコネを甘く見てもらっちゃ困るぜ。みんなの人気者、総一郎さまさま、ってな……っと」

うっかり本名を口にしてしまった葵はそれまでの自信満々の視線を、そぅっと葛から逸らす。
呆れたようなため息が頭上に降ってきた。葛はそのまま居間へ引っ込んだかと思うと、暫くして封をした
封筒を持って戻ってくる。

「この辺りで岸田と言えば有名だろうから迷うこともないと思う。一応住所も書いておいた」

葵の目の前に差し出された封筒には確かに葛の文字でとある住所と、“岸田”の姓の女性の名前が書かれ
ていた。

「葛……?」
「お前はスパイにしては迂闊すぎる。だが、……」

葵は葛を見上げた。相手の顔を見て話をする彼にしては珍しく、葵と視線が合うとスッと視線を背けてし
まう。

「……今回はこれで差し引きゼロだろう」

手紙を託すということは、当然、葛の本名や実家の場所を知ることにもなるので、葵にとって非常に大き
な弱みを握ることにもなるのだが、彼はそれを了承してくれたらしい。そもそも、家族のことや生まれの
ことを話してくれた時点でかなり心を許してくれていたのかもしれない。

「明日は出掛ける。店番は頼めるか?」
「あぁ、任せとけ!」

葵がそう言うと、葛はホッとしたように視線を戻す。その表情がいつもより柔らかく見えて、葵が見とれ
ていると、ドアベルの音と共に昼間の客が写真を引き取りにやって来た。
せっかく良い雰囲気になってきたのに、と心の中で不満を漏らしつつも、大幅に距離を縮めた二人の関係
に、葵は満足感を抱いていた。

 ◇◆◇

翌日、葛は綺麗に包装された小さな包みを持って帰ってきた。中身は髪留めらしい。
葵はそれを大事に預かると、言づてを書いた自分の署名入りの手紙と合わせて午前中のうちに連絡をつけ
ておいた船乗りへ届けに行く。
長崎に着いたら、港に勤めている知り合いを通じて葵の実家である小野家のネットワークに通じる手筈に
なっている。そこまで行けば、葛のプレゼントが彼の祖母に届くのもあとは時間の問題だ。
店に戻ると、心なしか不安げな表情の葛がお茶を煎れて待っていた。葵は大きく胸を叩いて「大丈夫だっ
て!」と声を張るも、葛の表情は晴れなかった。
その翌日にはいつも通り、淡々と家事を済ませ、写真館の業務をこなし、桜井機関の仕事も取り組む葛の
姿があったが、カレンダーを眺めては小さくため息をつくことに葵はしっかり気づいていた。
余計なことをしてしまっただろうか。葛の憂鬱な気分が伝染したように、葵も不安になってきたある日。
船乗りに届け物を依頼してからちょうど一ヶ月が経った日。
写真館に一通の手紙が届いた。届けてくれたのは、あの船乗りに依頼されたという見知らぬ少年だった。
葵はいつも通り、お使いを頼まれてくれたお礼に小さな包みを少年に渡すと店の外に出て見送る。
カウンターに戻りながら手紙を裏返してみたりするが、宛先はない。ただ、宛名の欄に葵の見覚えのない
名前が記されている。

「“琢磨へ”……って。葛、これお前にか?」

仕事の合間の一杯、と一息入れていた茶器を片づける手を止めて、居間から葛が飛び出してくる。

「ほら」

いつになく冷静さを欠いた様子を微笑ましく思いながら手紙を差し出す。葛はそれを受け取って、封を開
けると、直立したまま中身を読みふける。


『前略、琢磨へ 元気そうでなによりです。お前からの誕生日の贈り物はしかと受け取りました。綺麗な
 髪留めをありがとう。立派な孫を持って祖母は誇りに思います。届けてくださった御仁を引き留めてこ
 の文をしたためております故、乱文ご容赦ください。お前がいつか皇国のため武勲を立てること、そし
 て何よりもお前の健康を遠い地から祈っています。それでは。』


たった数行の手紙を読み終えた葛は、息を震わせて「お祖母様……」と呟いた。その様子から、どうやら
無事に葛のプレゼントは届いたのだと悟った葵もほっと胸をなで下ろす。

「よかったな、無事に届いたみたいで」
「あぁ……」

葛は丁寧に手紙を折りたたむと、元のように封筒へしまった。それから葵へ顔を向けると改めて礼を言う。

「ありがとう、葵。お前のおかげだ」
「いいって。気にするなよ」
「だが……」
「好きな奴のために何かしてやりたいって思うのは、人として当然だろ」
「な、……っ」

手紙を読む間に目尻に溜まっていた涙を指で拭いながら、葛の頬に手を添えた。

「お前が喜ぶ顔を見られて、俺も嬉しいよ」
「葵……?」

逃げるように顎を引くのを、頬に添えた手をずらして遮る。そしてそのまま葛の体を抱き寄せると、葵は
包み込むように優しいキスを送った。






【葵葛四題 「やさしい愛情」】






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葵葛がくっついているのか明確に定めないまま書き始めてしまったので、とても不安定な感じになりまし
た(笑)
しかも葛さんの実家の場所も関東圏くらいしかわからないし、郵便事情もよくわからないし、そもそもお
祖母様の誕生日知らないしwww
かなり不安定な感じの話になってしまった。

しかし、取り敢えずこれで葵葛四題のうち、一つをクリア!初めてお題に沿って書いた作品でした。


2010/09/04

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