空色追想歌




葵が姿を消してから二年が経った。
雪菜とは未だ連絡を取り合ってはいるが、直接顔を合わせてからもう随分経つ。

新型爆弾を巡る争いから二年。仲間が死に、尊敬した人が死に、愛した男が消えた。
『私たち、一緒にいてはお互いに駄目になってしまうわね』
雪菜がそう言った時、やはり女性は強いと思った。
棗も、高千穂大尉も、俺にとって大きな存在ではあったが、身内の彼女には半身を失ったような衝撃だっ
ただろうに。けれど彼女は気丈に振る舞った。
桜井機関はもう終わりだった。雪菜も俺も、未来を見据えていながら、会話するたびに過去の記憶に悲し
みに、傷を抉られるような痛みを伴った。
だから俺たちは離れて行動することにした。

争いから二年。俺は再び上海の地に立っていた。
軍の侵攻から早くも立ち直ったこの街は、かつてほどではないものの、賑わいを取り戻していた。
四君子堂写真館や招財飯店のあった場所にも足を向けてみたが、そこには民家や別の中華料理店が建って
いた。
俺はどこへ行くでもなく、上海の街を歩く。
いつの間にか路地へ迷い込み、俺はその場に立ち止まって、四方を建物に囲まれた狭い青空を見上げた。

「あの時の空に似ている……」

葵のポーチがかっぱらいに遭ったと勘違いして東奔西走し、冷静さを失っていた自分たちに呆れて見上げ
たあの空に。
白い雲から太陽が現れ、目を細めて手で庇をつくる。
『もうそろそろ夏だな』
あの頃、アイツはそう言って仕事もせずに二階の撮影所に籠もっては下手なバイオリンを弾いていた。
二日と間を空けずに演奏するので、夏を過ぎた頃にはすっかり耳が慣れて風蘭が文句を言うほど五月蠅い
と思うことはなくなっていた。

「(それもまた惚れた弱みというやつだったかもしれないが……)」

自嘲の笑みを浮かべて、並べてあった木箱に腰掛けた。
アイツは未だにあの下手なバイオリンを、この空の下のどこかで弾いているのだろうか。
高千穂大尉の元へ行ってからは一度も聴いていないあのバイオリンの音を、懐かしく思っている自分がい
る。
今でも目を閉じれば聞こえてくるように、あのバイオリンの音も、アイツの声も、胸の中に焼き付いてい
た。
それがこの二年間、新しい一歩を踏み出す勇気になった。あの頃と同じように。

二年前のあの頃は小さな手帳に自分を縛られていた。
お祖父様やお祖母様の言葉は、俺に生きていくための大きな支えを与えてくれていた。けれど、その言葉
に生きていく未来までも重ねる必要はなかったのだ。
そのことに気づくために、俺は大きな回り道をしてしまった気がする。俺が変わることを認めてくれる男
はいつでも傍にいたのに、俺は最後の瞬間までそのことにすら気づけなかった。
『俺とお前が組んでるんだ。しくじるなんてことはない』
そう言ったお前はもう、俺のことを信頼してくれていたんだな。
ことあるごとに言い争う日々。それでも俺たちは共にいた。俺は任務だからと割り切っていたが、アイツ
はきっと違った。
『なんだよ。まだお前、俺のことを信用してないのか?』
遅かった。遅すぎた。アイツは俺が心を許す日を待っていた。仲間になったのも何かの縁。互いのことを
もっと知ろう。だからアイツは俺を知ろうと傍に居た。
『まったく……、お前って奴は』
そう言って笑い合えた時は、既に遅かったんだ。気持ちを伝えただけでは駄目だったんだ。身体を繋げた
だけでは駄目だったんだ。

「葵……」

呟いた名前に胸を締めつけられる感じがした。
アイツを好きになっていた自分に気づき、戸惑いながら想いを伝え、一つになった。それから半年と経た
ずに俺は自ら愛した男を裏切った。
短い半年だった。
想いが通じて愛し合う仲になっても、言い合いは止まなかった。それがおかしくて、言い合いが終わると
アイツはいつも笑っていた。
『好きでもケンカはするんだよな。ケンカするほど仲が良い、ってのもあながち間違いじゃねぇのかも』
覚えている。くだらないケンカばかりだった。それでもそんな毎日がとても愛しかった。
今はそんな記憶が痛いほど胸を締めつける。

「葵……」

じわりと目頭が熱くなってきた。唇を噛んで耐えていると、ふいに何かの気配を感じてすぐ傍の塀を見た。
するとそこに現れたのはずんぐりと太った白と茶の猫だった。見覚えのあるその猫は棗が「パオズ」と呼
んでいた、あのかっぱらい猫だ。

「お前、生きていたのか」

上海事変を免れ、よく生きていたものだと感心していると、建物の壁に身体を隠していたパオズはのその
そとその全身を現した。
その身体にはいつか見たように、茶色のポーチが巻きついていた。

「っ……!!」

気のせいかも知れない。けれど、そうじゃないかもしれない。
二年間、足取りの掴めなかった男の足跡がふいに目の前に見えた感覚。
俺は咄嗟に手を伸ばしてパオズを抱き上げた。年をとって衰えたのか、動きの鈍くなっていた猫を捕らえ
るのは容易だった。
大人しいパオズを抱きかかえたまま、ポーチを回収する。中身は、財布と鍵、そしてフィルムが一本。

「パオズ、これをどこで……」

尋ねたところで猫が答えるとも思わなかったが、問わずにはいられなかった。
案の定、パオズは俺の腕の中で暴れ始めると、腕から飛び出して逃げてしまった。
俺は暫く呆然と立ちすくむ。
手元に残った茶色のポーチ。俺はもう一人の男しか思い浮かべられなくなっていた。
ポーチの肩ひもを手に巻き付けると、その場から駆け出した。
かつて招財飯店があった場所へ。今は別の中華料理屋が建っている。けれど、このポーチの持ち主がアイ
ツなら、きっと……。
息を切らして全力疾走。途中、何度も人とぶつかりそうになるが、頭を下げて先を急いだ。
目当ての中華料理屋に着いた時、身体が強ばった。緊張したのか、あるいはこのポーチがなんの手がかり
にもならないことを恐れたのか、それはわからない。むしろその両方だったのかもしれない。
ともかく、俺はすぐに店の中を覗くことができなかった。

「にゃー」

足下で猫の鳴き声がして、ふと見遣ると、またしてもパオズが暢気な様子でのそのそと歩いていくところ
だった。
こちらが全力で走ってきたというのに、おそらく奴は猫にしか通れない抜け道を通って悠々とここまでや
ってきたのだろう。
ふらりふらりと尻尾を揺らめかして店を覗きに行く。すると、店の中で叫び声がした。

「見ツケタ!泥棒猫!!」
「あーっ!!パオズ、俺のポーチ返せ!!」

叫び声に驚いたパオズは俺の立ってる方とは逆方向へ一目散に逃げ出し、それを追って店の中から一人の
男が飛び出してきた。
その男の後ろ姿を見て、俺は息を呑んだ。

「待てこら!!……ったく、逃がしたかぁ。どーしよ。あの中には写真屋を再開して初仕事のフィルムが入
 ってたのに……」

項垂れる背、頭を掻く仕草、そして何よりもその声。姿が変わっても間違える筈がない。
俺は震える声をなるべく抑えるため、ポーチを握りしめた。

「探しているポーチなら、ここにあるぞ」

パッと振り返った男は、記憶の中の姿よりも髪が伸びていて、少し痩せていた。

「それだ!!サンキュ!助かったぜ!!」

駆け寄って、俺が差し出したポーチを受け取る葵。屈託なく笑う顔や声は変わらない。

「うおっ、財布と鍵も入れっぱなしだった。あぶねーあぶねー」

ポーチの中身を確認する姿に思わず「貴重品の管理くらいしっかりしろ」と、怒鳴りそうになったが耐え
る。それではせっかくの再会が台無しだ。
しかし、そんな俺の努力を目の前の男はぶち壊しにした。

「あれ、葛……?え、もしかしてお前、葛か?」

あろうことか、葵は今気づいたようにそう言った。無意識に眉間に皺が寄る。

「ちょっと待て。二年ぶりだというのに俺はポーチの二の次か?」
「あ、いや……えっと……久しぶり」

おずおずと片手を挙げる姿に呆れ果て、俺は踵を返した。

「ちょ、ちょっと待てよ葛!冗談!冗談だよ!!いきなりすぎて反応に困っただけなんだって!!」
「うるさい黙れ!!」

肩を掴まれ、思い切りその手を振り払う。けれど、振り払った手を更に掴まれ、俺は顔を背けたまま立ち
止まった。

「離せ、葵」
「どうしたんだよ葛。怒らせたなら謝るから、ちゃんと久しぶりの再会を喜ぼうぜ」
「断る」
「おいおい……」

苦笑する葵は、俺の手を掴んだまま困った末に俺の顔を覗き込んだ。俺は咄嗟に顔を隠そうとしたが、間
に合わなかった。

「葛……、もしかして泣いてるのか?」
「っ……」

再会した葵が、あまりにも記憶の中の姿と変わっていなかったので、思わず涙が溢れてきた。
一時は敵対した俺を、変わらず仲間だと信じてくれた。そうして通じ合えたのを最後に、俺たちは二年間
離れていて、今日ようやく再会した。
この二年間。押し込めていた葵への気持ちが涙となって溢れてきて、自分ではどうしようもなくなってい
た。

「葛……」
「黙れ……っ。何も話すな。涙が、止まらなくなるだろう……っ」

抑えの効かなくなった感情は次々と涙を溢れさせる。ぼたぼたと地面を濡らす水滴が雨のようだ。
葵は「わかった」と言うと、静かに俺の肩に腕をまわした。
正面から抱きしめられ、俺は益々、感情の制御ができなくなる。

「くそ……っ、涙で視界が歪んで、どこにも跳べない……っ!!」
「いいよ、どこにも行かなくても。ずっと、俺の腕の中にいればいい」
「馬鹿かっ……。さっさと離れろ、人目についたらどうするんだ」
「俺たちはもうスパイじゃない。人目を気にする必要はないだろ」

そういう問題じゃない。そう言い返そうとしたが、更に強い力で葵に抱きしめられて息が詰まった。

「会えて嬉しい。葛、ずっと会いたかった」
「葵……」

肩に押しつけられていた顔をゆっくり起こされ、指で涙を拭われる。

「俺は今でもお前を愛してる。葛、お前は……?」

涙で歪んだ視界では、目の前で微笑む葵を見つめるのが精一杯だった。
けれど、今はそれで十分なのだとわかっていた。他に見るべきものなどない。

「――愛してる……。俺も、お前を愛している」

葵が太陽のように笑った。
釣られて俺も笑うと、今度は葵が泣いた。

「ずっと、もう一度、お前の笑った顔が見たいと思ってたんだ」
「そんなもの、これからいつでも見せてやる。お前が俺の傍を離れなければな」

どちらからともなく口づけを交わす。人の気配がしたので一度だけ短い口づけを。

今はそれだけでいい。これからもう二度と離れない。そう誓うための口づけだった。



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前半はちゃんと歌詞に沿うようにしていたのに、後半は体力切れでやりたい放題ですwww

路地裏で空を見上げて、パオズを追っかけてた時のことを思い出すネタは前々からやりたかったので、こ
の度、書くことができて嬉しいです。

しっかし、葵さん……。生きてたならさっさと葛さんに会いに来い、って感じですが(苦笑)
葵さん的には、「また上海で写真屋やってれば、行き違いにならないでアイツの方から会いに来てくれる
だろう」みたいな考えだったという感じの設定(曖昧……)

2010/08/11

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