ナナシさん幼少期のお話



日付が変わって大分時間が経つ。
幼いナナシは夢中で算数のドリルに鉛筆を走らせていた。ふと部屋の時計を見上げる。

「もうこんな時間…。まだたくさんわかるのに‥‥」

昼間イアンに出された宿題はとうに終わってしまっていた。けれど続きの問題もスラスラ解けて、それ
が面白くていつの間にかこんな時間まで『小学3年生の算数ドリル』に没頭していた。

「ハロ、もうねよう」

ナナシは膝の上に抱えていたハロに声をかける。イアンから遊び友達にとプレゼントされたハロは今で
は寝る時も、食事をする時も、勉強する時もずっと一緒だ。
今も計算ミスを指摘されたりして一緒に勉強していた。

「ハロ?ねよう?」

ナナシはジョイスから譲り受けた大きな机の端にドリルと筆記用具を片付け、膝の上のハロを持ち上げ
る。さっきまで目を点滅させて言葉を返してくれていた友達は何故か沈黙を守っていた。

「?…ハロ?」

先に寝てしまったのか。それならいい。けれど今まで一度もナナシより先に寝るということはなかった。
ナナシはふいに不安に駆られる。

「ハロ。起きろ。ハロ?どうした?」

球体のAIはナナシの声に答えない。
ナナシは椅子から下りて、小さな体には大きなベッドに寝転んだ。枕にハロを乗せて手の平で撫でたり、
ぺちぺちと叩いてみたりする。

「ハロ?ハーロー」

何度呼びかけても答えない。

「ハロ、こわれちゃったのか?」

よいしょ、とベッドから転がって下り、ハロを腕に抱えて部屋の電気を消した。

「ヴァスティに見てもらおう?まだ起きてるかな」

同い年の男の子より体の小さなナナシは、ハロを抱えると腕が目一杯に伸ばされる。その細い腕に自覚
されない心細さを滲ませながら部屋を出た。
リビングは暗い。廊下の電気も全部消されていた。
ナナシは月明かりだけを頼りに薄暗い部屋を横切り、イアンの部屋を目指した。
扉の前に立ち、細い腕でハロを抱え直す。“拾われた”という自覚があるからか、こういう世話をかけ
るような行為は緊張するものだ。
片手ではずるずる落ちてしまうハロを必死に抱えて、右手をグーに握った。

「ヴァ

『ちょっ、待てジョイス!』

ノックをして呼びかける寸前に、部屋の中からイアンの声がする。
モレノも居るのか、と思いながら改めて右手を上げると今度はジョイスの声が聞こえた。

『十分に解してやっただろう。大丈夫だ大丈夫』

『“大丈夫”がすごいテキトーだぞこら!っ、待てってジョイス‥‥っ、ァッ…!!』

苦しげな、けれどどこか気持ち良さげなイアンの喘ぎ声が漏れ聞こえる。あぁ、とナナシは思った。

「(また“おいしゃさんごっこ”してるんだ。じゃましたらわるいな)」

ジョイスの言う“お医者さんごっこ”が単なる遊びではないことくらいナナシにもわかっている。ひど
く官能的で淫猥で、ジョイスとイアンが深く愛し合う行為。
愛してもらうことは嬉しいこと。安心できること。
それをナナシは邪魔したくなかった。
幼いナナシはハロをギュッと抱きしめてそのまま床に座る。邪魔はしたくなかったが、大事な親友の不
調が心配なのも事実なのだ。

「(“おいしゃさんごっこ”が終わったらすぐにヴァスティにみてもらうからな)」



――ハロ!ナナシ!ナカヨシ!ナカヨシ!



窓から見上げた月は、生まれて初めて出来た親友と同じ、真ん丸の満月…――。
ナナシはハロを抱きかかえたまま、いつの間にか部屋の扉に寄りかかって眠ってしまった。



深夜三時過ぎ。ジョイスは煙草を片手に部屋の扉に手をかける。外開きの扉が僅かに重い。

「?」

目を細め、無言のままゆっくりと扉を押し開いた。
扉に押されて倒されたナナシは頭をゴチンと床にぶつけて目をぱちくりさせる。

「ナナシ、どうしたんだ?」

「‥‥あ、もれの‥‥‥」

寝ぼけて上手く喋れていない。けれどジョイスはしゃがんでナナシを起こすと、床にぶつけた頭に怪我
をしていないか様子を見ながらもう一度「どうした」と尋ねた。
ナナシは両手でハロを差し出す。

「ハロがこわれちゃった。はなさなくなっちゃった」

「ハロが?」

「ヴァスティになおしてもらう」

「まぁ待ちなさい」

立ち上がって部屋に入ろうとするナナシを捕まえて、ジョイスはハロを手に取った。
簡単にハロを調べただけで原因は容易に判明する。

「わかった?」

「あぁ、充電切れだ」

「じゅうでんすればまたしゃべるのか?」

「また喋るし、動く。大丈夫だ」

「なら、よかった‥‥」

そう言うと、また眠そうに瞼を擦るナナシ。ジョイスはナナシを抱き上げるとナナシの部屋に向かった。

「充電機はイアンが持ってるから、奴が起きたらハロを充電させよう。今日はもう寝なさい」

「わかった…。ヴァスティ、寝てるの?」

ジョイスは背後の部屋の中を振り返る。ベッドの上にはあまりに強い快楽とジョイスの若さに堪えきれ
ず気を失ってしまったイアンが眠っている。ジョイスはクスと笑みをこぼすとナナシを優しい目で見下
ろした。

「奴も充電切れさ」

「そう…か‥‥」

ジョイスの腕の中でナナシは再び夢に落ちる。
あどけない寝顔を優しく撫で、ジョイスはナナシをベッドに寝かせて部屋を出た…――。





翌朝。

「よぉ!今日は寝坊か?」

「うー…」

「おはようナナシ」

「うー…おはよう、モレノ、ヴァスティ‥‥」

「おぅ、おはようさん!‥‥ん?どうした?」

「ヴァスティ、ハロは?」

「あぁ、ハロならまだ充電中だぞ。でも話すだけなら話せるから挨拶してきたらどうだ?」

「わかった」

「俺の部屋にいるからな」

「うん。――ヴァスティは…」

「ん?」

「もうじゅうでんぎれ直ったんだ」

「へ?」

「ハロに会ってくる」

トタトタ‥‥。

「――…なんだ?俺が充電切れ?」

「昨日の情事をナナシに聞かれてたみたいでな」

「!?な、なんだって!?お前さん、なんでそんな大変なこと…!!」

「言ったところで事実は変わらないから」

「あの子はまだ十歳にもなってないんだぞ!?」

「それで気絶しているお前を指して私が『イアンは充電切れ』だと…――」

「うわぁぁぁぁ…!!何てことを言ってくれたんだ馬鹿ジョイスー!!」

「嘆くな。玉子焼きが焦げるから」

「誰の所為だっ!!」





一方イアンの部屋。

「ハロ?」

「!ナナシ!ナナシ!ハロ、ゲンキ!ハロ、ゲンキ!」

「ハロ!元気になった?」

「ゲンキ、ゲンキ!」

「あぁ。よかった」

「ナナシ、ケイサンチガウ!ケイサンチガウ!」

「昨日のか?わかった。後でまたいっしょに勉強しよう」

「オベンキョウ!オベンキョウ!ハロ、ナナシト、オベンキョウ!」

「ハロ…」

「イッショ!イッショ!ハロ、ナナシ、ダイスキ!」

「ありがとう、ハロ…」

「ダイスキ!ダイスキ!」

ナナシは黙って、ハロの表面にキスをした――



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ナナシさんは小学校には行ってません。イアンとモレノさんとハロがいろんな勉強をみてくれます。
なかなか頭はいいと思います。
しかしモレノさんのマイペースさ加減には頭が下がる(苦笑)

2008/06/09

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