Encounter with wound-5 ロックオンはハレルヤに慰められながら、治療を終えたナナシが目覚めるのを待ち続けた。 白いシーツに覆われ、垂らされた点滴の管だけが紅い。 「ロックオン…」 ハレルヤは軽くロックオンの肩を叩いて立ち上がった。 「点滴がもうすぐ無くなる。どちらかのモレノを呼んでくるからナナシを頼んだ」 「ん、わかった…。ごめんなハレルヤ」 ハレルヤは無言でロックオンの額にキスを落とし、部屋を出ていく。残ったロックオンは小さくため 息を吐き、未だ目覚めないナナシの顔を見た。 薬に飢え、狂気に陥ったナナシの姿。薬を求め、妖艶にサーシェスを誘うナナシの姿。 そのどちらもロックオンの知らないナナシで。感情を露にしたナナシを見た、あの時の喜びのような 感情は微塵もなく、ただ頭の中が真っ白になった。 軽蔑する?――いや、それはない。 それならば嫌悪を?――それも違う。 じゃあこの気持ちはなに? ――…不安? 絶対的な“強さ”が揺らいだことの不安。家族を失った時と同じような心細さ。 「ナナシさん…――」 ロックオンはナナシの胸に頭を乗せ、手の平を頬に添わせた。 「いつもみたいに、笑って言ってください‥‥」 『大丈夫だよ、ニール坊や』 『俺は大丈夫だから、泣くのをやめなさい』 ロックオンは涙で視界が滲んだのを意識して、顔を上げ、手の甲で涙を拭った。 その時、ナナシの唇が薄く開く…―― ◇◆◇ ナナシの意識は混沌とした闇に埋もれていた。 四肢の感覚はあるのに視界だけが奪われた状態。ナナシはその中で、ただ手に馴染むナイフの感触だ けを感じていた。 不意に背後に殺気が生まれた。相変わらず視界は闇に閉ざされたまま。 ナナシは躊躇いもなく殺気に向き直ってナイフを真横に薙いだ。手に、切り裂かれる肉の感触が伝わ る。ナナシはほんの少し安堵した。―――そして同時に恐怖した。 更に生まれる殺気。ナナシは殺気が現れた方向に正確にナイフを突き出す。 ――殺した相手は本当に敵なのか…? その戸惑いを押し殺して、顔にかかる生暖かい返り血に笑みを漏らした。 ナナシの周りに、殺気は際限なく現れる。その度に手にしたナイフで敵の肉を裂いた。 衣服はほとんどが血に濡れ、重い。ナナシは感覚が曖昧になった指先を、見えるわけはないのに胸の 前に広げて見下ろした。 しかし見えた。 何故か唐突に己の手の平が見えた。真っ赤に染まり、衣服も髪も血にまみれた姿がはっきりと。 「く、くく…――」 ぽたり、と前髪の先から手の平に紅い滴が滴り落ちる。ぽたりぽたりと滴が落ちる度にナナシは声を 漏らして笑った。 「くく、ふふふ…あ、はは…アハハハハ…!!」 血だらけの手の平で髪を掻き上げる。べっとりとした血のりが涙を覆い隠した。 新たに現れた殺気にナイフを閃かせていく。返り血は更に服を重くした。ナナシの笑い声は止まらな い。 「アハハハハ!!アハハハハハハ…!!」 狂ったように笑い続けた。おびただしい量の血に恐怖する心を押し殺すように。返り血で腐っていく 身体から目を逸らし、ただ泣くのを避けて笑う。 「ふふふ…あはははは…!」 唐突にナナシの細い両手を暗闇から伸びた手が床に押さえつけた。組み敷かれたナナシの躯にいくつ もの手が這い回る。 服をはだけさせ、舌が這った。 暗闇から男たちの笑い声が返ってくる。心底楽しそうな男たちの声が。 「ぁんっ、ふふっ…!はは、は…は…――」 下肢に伸びた手がナナシの後孔を探り始めた。同時に、ナナシの顔に何かが掛けられる。 それは血とは違う、生暖かいが独特の匂いを放っていた。 ――男の精液だ。 顔に掛けられたのを皮切りに身体中に浴びせられる。ナナシの躯は赤と白に濡れた。 「ふふ、ふ…は…は…はァッ、はァ、ッ…い、や‥‥」 恐怖は笑って押し隠してしまえばいい。 しかし隠しきれない恐怖がナナシの喉から溢れ出した。 「は、ぁ…アアアアアッ!!いやぁぁぁぁっっ!!いやァッ!!やぁぁぁぁっっっ!!!!」 幼少の頃は抑えきれた筈の恐怖が今になって耐えられない。溢れ出した恐怖は止まらなかった。 「いやぁぁぁッ!!アァッ!!いやっ、やぁぁぁ…っっ!!」 「ナナシさんっ!!」 頬に痛みを感じ、濡れた感覚や男たちの手の感触は消える代わりに、目を開いたその先の光の中にロ ックオンの姿を見つけた。 「ナナシさん…大丈夫ですか…っ?」 ロックオンは自分の手を握りしめ、ナナシを見下ろす。咄嗟とはいえ、魘され始めたナナシを叩いて しまったことに怯えた。 「――…ニー…ル、‥‥‥」 ハァ、ハァ、と浅い呼吸を繰り返してナナシが呟く。彼はのろのろと自分の手の平を持ち上げて、目 の前にかざした。 血に染まっていた手はただ震える青白い手の平に戻っていた。 「お、れ…は‥‥」 額に左手を、頬に激痛の伴う右手を当て、己の顔に何も掛かっていないことを確認する。目を閉じよ うとすれば先程の光景や感覚が蘇ってきて、再び呼吸を荒くして目を見開いた。 動悸が治まらず、ナナシは短い呼吸を繰り返す。 ふと、指の間からナナシは自分を心配そうに見下ろすロックオンを見た。右手を伸ばしてロックオン の額から頬にかけて触れる。 「――…すまない、ニール‥‥」 「ナナシさん…?」 戸惑うようなロックオンの声がした。ナナシは辛そうに表情を歪め、ロックオンの頬を撫でる。 「俺は‥‥知らなかったんだ…。不特定多数の男に抱かれる…恐怖を‥‥」 ロックオンは無言でナナシの手を取った。骨折しているナナシの腕を労ってベッドの上に下ろそうと したのだ。しかしナナシは少し力を込め、それを拒む。ロックオンの頬を優しく撫で擦った。 「怖かっただろう?ニール。黙って犯され、その男に挿入れられたまま男の額を撃ち抜くのは‥‥」 ロックオン―――ニールは瞳を見開き唇を噛むと、小さく頷く。ニールはもう一度ナナシの手を握っ た。すがるものを求めるように。 「すまなかった、ニール。わからなかったんだ、あの頃の俺は。肉体関係に恐怖を感じるなんて‥‥ 感情が生まれるなんて…」 今度はナナシも拒まない。痛みの許す限りの力でニールの手を握り返した。 「すまない、ニール…、俺は…―――俺は、アリーにそうされるまで‥‥わからなかったんだ…っ!!」 ニールの表情から顔色が消える。半ば予測はしていたが、やはり衝撃は大きかった。 「アリー、って…俺たちの世界の…?ナナシさん…そんなっ、いつ!?」 「六年前…お前が俺を刺す少し前…。三日ほど、戻らなかった時があっただろう…?」 「三日間…ずっと…?」 自嘲の笑みを浮かべたナナシの顔を彼の左手が覆い隠す。 「クスリを打たれ、何度気を失ったかな…」 「っ…!!」 ぎゅっとニールの体が強ばった。そこまで激しい行為をされた経験が一度しかないニールは、その一 度だけの行為を恐怖と共に思い出す。 相手はナナシと同じ、アリー・アル・サーシェスだった。 「――…そんな行為、馴れていた筈なのにね‥‥」 ニールはナナシの言葉に首を振る。もう何も言って欲しくなかった。 ニールには、ナナシが自らの言葉に傷ついているように見えた。 言葉を遮るようにナナシの頭を抱いた。 「ガキの頃から何度も組織の幹部どもにやられて馴れていた筈なのに‥‥」 ニールに抱きしめられながらナナシは手を天井に向けて伸ばす。 「…そうだ。俺はガキの頃からまともじゃなかった。―――歪んでいた‥‥」 「ナナシさんはまともだ!!歪んでんのはあの男だよ!ナナシさんじゃない!!ナナシさんじゃ…っ!」 ナナシの肩を暖かいものが濡らした。ニールの涙だ。 ナナシは小さく息を漏らす。 「ニール坊や。俺が歪んでなかったら、俺はお前に人殺しや躯を売る仕事をさせたりしなかったし、 ましてやお前が苦しむのをわかっていながら二度もお前にナイフを向けさせたりはしない」 「っく、でもっ‥‥でも…!!」 もう一度、ナナシはニールの頭を撫でながら息を吐いた。 「ありがとう、ニール坊や。俺がどんなに汚れきった薬中の人間でも、それでも人間らしく生きられ るのは、お前のおかげだよ」 ぐすぐすとニールは細かく息を吐きながら「おれは…」と呟く。ナナシは首を傾げ、肩口のニールを 見た。 「俺…俺、怖かった…知らない男に抱かれるの。自分が汚れていくのがわかった。だからそんな自分 をアレルヤやハレルヤに知られるのも、ずっと怖がってた‥‥!」 ナナシの唇が「すまない」と刻む。しかしニールは首を振って腕に力を込めた。 「でも…でも、俺はっ…!」 僅かに顔を肩から上げる。ニールの横顔がナナシに見えるようになった。 「俺は、ナナシさんに抱いてもらうのだけは怖くなかった…!!」 小さく鋭い声で「ニール坊や」と咎めるナナシ。現在のニールの恋人であるハレルヤに聞かれてはい けないと思ったのだ。 けれどニールはナナシの制止を無視する。 「だってナナシさん、いつも俺のこと考えてくれて…俺が痛くないように、俺が気持ちいいように、 って…!」 「確かにそうだが、しかし…!」 「ナナシさん…いつも優しかったじゃないか‥‥。だから、歪んでなんか‥‥っ」 ナナシはようやく悟った。ニールは自分を慰めてくれようとしているのだと。異様な幼少期、血に染 まった青年期を過ごしてきた自分を。 ニールは受け入れようとしている。ナナシの弱さを。ナナシの脆さを。 ――けれどねニール… お前も弱い。弱くて脆い人間だよ…―― ナナシの心は溢れそうな感情の波を静かに奥底へ沈めていく。 本当は己の悪夢をすべて誰かに預けてしまいたかった。けれどニールは、もう充分に悪夢を背負って いる。そしてニールは自分よりも弱い人間だ。むしろ守ってあげなくてはいけない。 だから…―― 「俺は大丈夫だよ、ニール坊や。大丈夫だから、泣くのをやめなさい」 ナナシは優しくニールの頭を撫で、微笑みかけた。 ニールは微笑むナナシを見て、元気になったものだと嬉しそうに笑う。 そこへモレノを連れてハレルヤが戻ってきた。ハレルヤはナナシを見て「目ェ覚めたか」と彼らしく ない柔らかい声で言う。 ナナシはハレルヤにも礼を述べ、モレノの問診にしっかりとした口調で応えた。 それでもしばらく安静にと言われ、ナナシは大人しく横になる。引き続きロックオンはナナシの傍に ついていてくれるようだ。ハレルヤはサーシェスの様子を見てくると言ってモレノと再び席を外した。 ナナシは目蓋を閉じた。まだ微かに悪夢が目蓋の裏に甦ったりしたが、耐えられなくはなかった。 ニール坊やの“好き”は家族へ向ける愛情。そこに寄りかかるわけにはいかない。 ライル坊やの“愛してる”は恋人へ向ける愛情。彼は俺の弱い部分を求めながら、逆に居場所を俺に 求めている。 もう一人のアリーの“好き”は大切な者へ向ける愛情。けれど彼の胸はもう一人の俺の場所。奪うわ けにはいかない。 まだ大丈夫…。まだ大丈夫‥‥。 まだ独りでいられる。大丈夫だ、耐えられる…。 ――…まだ大丈夫‥‥だよな…? 少年の姿のナナシが目蓋の裏の暗闇から赤と白に濡れたまま、「誰か」と叫ぶことができず、唇だけ を動かして座り込んでいた――― ----------------------------------------------------------------------------------------------- 自分の感情を誰かに預けることができないナナシさん。奥スナナナシさんはアリーがいて、小さい頃 はモレノさんとおやっさんがいて、でもFSナナシさんには誰もいなくて‥‥。 しかし取り敢えずこのwoundのシリーズは終了です。あまりハッピーエンドではないですね。 warmthがこれの続編になります。 2008/08/12 |