誰にも言えない秘密の泣き言-6



前から予定していた休日を代わってもらったツケは、店長と私、二人だけでいつになく多い客の接客を
することだった。
今日は何かあっただろうかと考えてしまうほどの客の多さに目が回りそうだ。ただの小さなバーになぜ
か今日に限っては客がひっきりなしにやってくる。洗い物の皿やグラスは溜まる一方で、バーという場
所故に忙しくても優雅に振る舞わなくてはならない。

「店長、取り敢えず空いたボトルを出してくる」

「分別は後でいいから早く戻ってくれ」

「わかった」

カクテルを作る店長とすれ違いざまにそうやりとりをし、私は空いたボトルでいっぱいになったケース
を持って裏口から出た。

「よっ、と…」

外は相変わらず冷えるな…。入り込んできた冷気に顔をしかめると、路地の裏口から表通りに続く方に
誰かがいた。目を向けると、それは見知らぬ男と、その男にすり寄るアイルだった。
身なりのいい男は「あっ」と声を上げると、そそくさとアイルの服の間に差し込んでいた手を引き抜
く。そしてアイルの手に紙幣を数枚握らせると、前屈みになりながら人目を気にするように路地を出て
行った。

「アイル」

私が声を掛けると、彼は私に背を向け、はだけていた服を直していく。アイル、ともう一度呼び、その
肩に手を置いた。

「なぜまたこんなことをしているんだ。身体を売る仕事をやめたかったのではないのか」

前に回り込もうとしても顔を背け、またくるりと後ろを向いてしまう。

「アイル!!」

私は彼の肩を強く掴んで少し強引に振り向かせた。彼はハッとした表情でターコイズブルーの双眸を大
きく見開く。

「まさかまたあの店に戻ったわけじゃないだろうな!?」

詰問する私の声にアイルの表情が悲痛に歪み、腕の中で暴れ始める。

「アイル!!」

「うるさいな!!店には戻ってねぇよ!けど、俺にはこういう仕事しかできねぇんだ!!俺はそう言ったは
 ずだ!!」

アイルは私の腕を振り払い、私は振り払われた手でもう一度アイルの腕を掴む。

「離せよ!!中途半端なことしやがって……!」

下を向いて暴れるアイルの手首はあまり強くない力で捕まえている。彼の姿を見つめながら私は胸の中
で舌打ちをした。
まるで子どもではないか。一人では怖いけれど誰かの手を取るのは意地が邪魔をしてできなくて。踏み
出そうとしていた道を大人の都合で変えられて拗ねて。大人ぶってみるけれど誰かに甘えていたくて。
アイルは、私に会いたくないと言っておきながら、私の働く店の傍で客を探していた。体格に差がある
とはいえ、あまり力を入れていないのだから今掴んでいるこの手も、逃げようとすれば逃げられるはず
なのに、そうしないでいる。
その姿を見下ろして、私は我慢できなくなり、小さな声で「すまない」と言った。その声にアイルはぴ
くりと反応し、動きを止める。それからトン、と私の胸に額を当てて震える声で呟いた。

「謝るくらいなら、最初からシカトしてくれればよかったんだ……」

アイルが顔を押しつけた部分がじんわりと熱く濡れる。
今この青年の頭を優しく撫でてやることは、彼を傷つけることにならないだろうか。

「アンタが俺を娼夫としてだけ見ていてくれたら……、アンタが俺に優しくしなければ……、っ」

抱きしめて大丈夫だと言ってやって、それで彼は泣き止むだろうか。迷いながら掴んでいた手首を離す
と、その手はするりと抜け出して私の服を握りしめる。グッと掴んで、引っ張られた。

「俺にもまだ、普通の生活ができるって言ったのはアンタだろ!?ちゃんと最後まで面倒みろよ!途中で
 一人にするなよ……!!」

躊躇いながら抱きしめようとした腕の間を、タイミングを見計らったようにすり抜けられる。彼は俯い
たまま私から数歩離れて背を向けた。

「気づかなきゃよかった……。アンタのこと、好きになったって……、気づかなければよかった!!」

両手で顔を覆い、涙を拭いきったアイルは今にも走り出そうとしたので、私は咄嗟に後ろから抱きしめ
た。腕の中の青年が息を呑んだのが伝わってくる。

「っやだ……、はなせ……っ!」

再び暴れ出す彼を強く抱きしめる。腕に大粒の涙が落ちた。

「アイル……」

耳元で呼ぶと、逃げ出そうと身をよじっていたのがぴたりと止まる。そのままもう一度謝罪の言葉を述
べた。

「すまなかった……」

「っ……。だから……謝るくらいなら、こんな……。離せよ……っ」

私は抱きしめていた腕を解き、代わりにアイルの腕を掴んで歩き出す。

「私は本当に要領が悪い。途中で見捨てる気はなかったんだ」

「なに……?それ、どういう……」

肩越しに振り返るとアイルは赤くなった目でこちらを見ていた。彼は大人しく腕を引かれるままついて
くる。

「本当はすべて準備ができてから迎えに行くつもりだったんだ。ただ、ちょっといきなりすぎて時間が
 なかったから、どうしても一人にせざるを得なかったんだ」

すまない、と続けるが、アイルは混乱した様子でただ私を見つめていた。

「昨日は言葉が足らなかったな。それも私の悪い癖だ。謝ろう」

店の裏口の前で立ち止まり、扉に手をかける。その時ようやく我に返ったアイルが慌てて声を上げる。

「ちょっ、ちょっと待った!意味わかんねぇよ!ちゃんと説明してくれ!!」

「そうしてやりたいのは山々なんだがな……」

扉を開くと、ちょうどカウンターからまわってきた店長と目が合った。途端に鋭い声で「遅いぞ!」と
叱られる。

「……見ての通り時間がないんだ。取り敢えず手を貸してくれ」

そう言って苦笑してみせる。呆然とするアイルを無理矢理店の中に入れ、

「店長、助っ人を連れてきた。洗い物と簡単な調理は彼に任せていいか?」

「なんでもいいから早くカウンターに戻れ。テーブルが埋まってるんだ。そのうちカウンターもいっぱ
 いになるぞ」

「急ぎます」

私は一旦、控え室にアイルを通し、そこで棚を漁り、余っていたワイシャツとエプロンを渡した。

「まずはこれに着替えて。それから流しに洗い物がたまってるから、洗って、割らないように布巾で拭
 いてくれ。手が荒れるから洗剤を使う時は横にある手袋をつけたほうがいい。わかったか?」

コートをかけるハンガーも渡しながら早口で説明する。アイルは腕の中の制服と私を目で往復し、「な
んで」と言った。私は軽く息を吐きながら笑って、その問いには答えずに「早くしろよ」とだけ言って
控え室を後にした。
カウンターに戻ると早速オーダーに呼ばれ、カクテルのオーダーは店長に任せ、つまみを取りながら流
しの方を見遣る。
無視して出て行かれる心配もあったが、アイルは言われた通りに服を着替え、手袋をして洗い物に励ん
でいた。つまみをテーブルに出すと、アイルの方へ顔を覗かせ、皿やグラスを拭く布巾の場所を教えて
やる。

「拭いたらここへ置いておけ。取りに来る」

「わ、わかった……」

素直な返事に微笑んで頷くと、またすぐにカウンターへ戻り、オーダーをこなす。
結局、閉店時間まで客の数は減らず、いつもならすぐに掃除を開始するのも、今日はカウンターに腰掛
けて小休止を入れた。
店長は控え室でコーヒーを飲みながら今日の精算をすると言っていなくなり、代わりにアイルがやって
くる。

「クラウス……」

「あぁ、アイル。どうだ?疲れたか?」

「いや、俺は……大丈夫」

「そうか」

隣に座るように促し、手を伸ばしてグラスを取るとアイスティーを注いで渡した。「ありがとう」と受
け取るアイルに「どういたしまして」と返す。

「アイルが手伝ってくれて助かったよ。今日は本当に疲れたな!」

「あ、あぁ……。あのな、クラウス……」

口ごもるアイルを、自分のアイスティーを飲みながら横目で窺い、ん?と問う。視線を彷徨わせるアイ
ルに手を伸ばし、くしゃりと頭を撫でた。アイルは驚いて私を見る。

「っ、なに……?」

「仕事、できただろう?」

「え……?」

身体を売ることしかできないと言っていたアイルに、今日は皿洗いやつまみの下ごしらえ、空いたボト
ルの分別をさせた。さすがにカクテルを作らせたり、表に立つ会計を任せたりはしなかったけれど、そ
れでも十分に役に立った。

「違法風俗なんてしなくても、ちゃんと君にできる仕事があっただろう?」

多少無理矢理ではあったけれど、アイルを手伝わせたのはそのことに気づかせるため。子どもの手伝い
のレベルだが、初心者は誰でもここから始める。
エプロンを渡した時のアイルの「なんで」に対する答えだ。じわりと両目が潤んだのを隠すためか、ア
イルは咄嗟に目を逸らす。
その時、店長がコーヒーのおかわりを煎れに出てきた。

「店長、今度から彼をアルバイトとして週に何回か働かせてはいけませんか?仕事に慣れるまではバイ
 ト代はいりませんから」

「んー?別に構わないぞ。ちょうど来月に一人やめると言ってきていたから彼の代わりに雇おう。それ
 まではバイト代なしでいいならな」

「えぇ、構いません。ありがとうございます」

「ちょっ、いいのかよアンタら!」

アイルが慌てるのも最もだろう。私もこんなにあっさりと決まるアルバイトの面接なんて見たことがな
い。けれど私には好都合だ。彼に新しい仕事を紹介できたし、すぐ近くで見守ることもできる。

「クラウスの紹介ならそこまで木偶じゃないだろう。新しくバイト募集をかける手間も省けるし、見習
 い期間中にしっかりと仕事を覚えてくれりゃ問題ない」

店長のこの大雑把な性格が幸いしたな。アイルには取り敢えず私がシフトに入っている日のうち、週に
三回、アルバイトに入ってもらうことが決定した。

「あ、ありがとうございます。よろしくお願いします」

隣で席を立ち、お辞儀をするアイルに合わせ、私も頭を下げる。店長は「よろしくな」と言うと新しく
継ぎ足したコーヒーを持って奥へと戻ろうとした。

「――と、そういや大事なことを忘れていた。お前さん、名前はなんて言うんだ?」

店長に問われ、私が口を開く前にアイルが答える。

「あぁ、申し遅れました。ライルといいます。ライル・ディランディです」

―――ライル・ディランディ。そういえば“アイル”というのは芸名だと言っていた気がする。

「ライルか。それじゃライル、今日は掃除まで頼んだぜ」

「はいっ」

片手を上げて奥へ下がる店長。私は隣に腰掛ける青年を見た。彼はこちらに体を向けると、ふわりと微
笑んだ。

「俺の本当の名前だよ。ライルが俺の本名。ここで雇ってもらえるなら“アイル”の名前はもういらな
 い」

だろ?と言うライルに私は頷く。彼はカウンターに肘を乗せ、両手でグラスを持つと足をぶらつかせな
がら独り言のように続けた。

「あー、後は住む場所か……。いつまでも人の家に厄介になる訳にもいかないし……」

どうやらホテルに泊まるということはしなかったらしい。予想できたことだが、とにかく昨晩はちゃん
と屋根のある場所で寝られたことに少しは安堵する。しかし、まさか厄介になった家で……と考え始め
たところでライルが「心配しないで」と考えを読んだように話しかけてきた。

「クラウスがやめろって言ったことはしてない」

「そ、そうか……」

「……っていうか、しようとしたら怒られちまったんだ」

怒られた?どういうことだと首を傾げると、ライルは苦笑しながら答える。

「ご奉仕しようとしたら、『セックスする元気があるなら掃除でも料理でも手伝いやがれ』ってさ。そ
 れが普通のお礼の仕方だって」

「そうか……。それはいいことを教わったな」

ライルは子どものようにうん、と頷き、アイスティーを一口。それからグラスをカウンターに置いて伸
びをした。

「俺、いっぱい勉強しなきゃなぁ……。料理と掃除と買い物と……、あ、その前に家を探さなきゃ」

それなら、と私はカランと氷が音を立てたグラスを置く。

「明日……まぁ、日付としては今日だが……。次は荷物を持ってきなさい」

「住む場所、紹介してくれんの!?」

「甘い」

瞳を輝かせてこちらを向いたライルの額をペチンと弾く。

「家探しも勉強のうちだ」

「むー。じゃあなんで荷物……」

唇を尖らせて睨むライルの頬を、曲げた指でぐりぐりと押してからかうとさらにふくれっ面になる。ラ
イルの柔らかい髪をかき混ぜて、私は笑った。

「ここに通いやすくて、男二人が生活するのに窮屈じゃない家をちゃんと探せよ。コツは教えてあげよ
 う。炊事・洗濯・掃除の仕方もな」

「え……?」

拗ねていた表情が呆気にとられる。その様子が愛しい。豪快に撫でていた手をゆるめ、優しく髪を梳い
た。

「途中で見捨てる気はないと言っただろう?狭い家だが、引っ越すまでの辛抱だ。君が一人で生活でき
 るようになるまで面倒みるよ」

「え?え……?うそ……」

「嘘じゃないさ。君をあの店から買ったあの日、アパートの更新取り止めと、物件探しに一日かけて走
 りまわったんだ」

新しい物件探しはうまく見つからず、結局できたのは大量の資料を持って帰ってくることだった。日が
暮れてから掃除をしたり、もう一人暮らせるだけの布団や食器があるか数えたり、てんてこまいだっ
た。

「受け入れられるだけの準備が整っていないと、満足に君の面倒をみてやれないだろう?」

「クラウス……」

ライルのカウンターの上に置いたままだった手が震える。きゅっと握りしめ、唇を噛んだ。
私は髪を撫でていた手を彼の口に添え、固く結んだ唇を親指でもみほぐす。

「傷がつくからその癖も直したほうがいいな。君には教えることが多そうだよ、ライル」

「っ、クラウスっ!!」

ドサッとライルが私の胸に飛び込んできた。椅子ごと倒れそうになりながらも、なんとか受け止めた。

「ははは、どうした?」

「クラウス、大好き!もっと俺のこと呼んで!!いっぱい、いろんなこと教えて!!」

そんなに大声で叫んだら店長に聞こえてしまうじゃないか。私は苦笑しながら膝の上にライルを座らせ
て、人差し指で口を塞ぐ。

「わかった。少しずつ教えていこう。まずは店の後かたづけから……。いや、その前に……」

口を封じていた指を離し、代わりに自分の唇を重ねる。軽く触れただけで舌を差し込んだりはせず、す
ぐにやめた。

「キスは愛情表現の手段だ。金銭をもらうための行為ではないぞ。いいね?」

腕の中のライルはこくこくと頷く。
それを確認して膝から下ろし、私も立ち上がるが、ライルの手がシャツの裾を引く。

「うん?」

「クラウスは俺のこと、好き?好きだからキスしてくれたのか?それとも、ただ教えただけ……?」

私は何も言わずにカウンターの奥へ入っていく。その後をライルはついてくる。

「嫌いではないよ」

モップを二つ取り出しながら彼の顔を見ずに言う。

「それじゃわかんない!!」

振り向けなかったのは、子どもっぽい彼がとても可愛くて笑みが隠せなかったから。片方のモップをラ
イルの手に持たせながら、今度はさっきよりも長くキスをした。

「ん……」

上唇を吸うとチュッと音がした。柔らかい唇を優しく食んで、離す。

「今のは、愛情表現だよ」

そう言ってライルの横をすり抜け、カウンターからでてホールの拭き掃除に取りかかる。

「クラウスっ!!」

呼ばれて振り返ると、チュッと音を立てて唇へ軽くキスされた。僅かに頬を紅潮させたライルがモップ
を両手に持って立っている。

「俺のも、愛情表現な!!」

あぁ、と笑って、手の甲で優しく彼の頬を撫でた。目を細めて頬をすり寄せてくる姿はまるで動物のよ
うだ。

「(可愛いな……)」

自分が彼を恋愛対象として意識しているのか、まだ時々わからないこともある。
けれど、彼を見守り続けたいと思うのは確かで、愛しいと思うのも確かだ。
この腕に抱きしめていたいと思うのも。キスをしたいと思うのも。



ライルを私のアパートに呼び、新しい家を見つけるまでここで生活を共にすることになる。
同じベッドで眠りにつく。セックスなんてしない。ただベッドが一台しかないから同じ毛布にくるまっ
て寝るだけ。

「……好きだよ、ライル」

すーすーと腕の中で寝息を立てていたライルの表情が、ほんの少しだけ笑みに変わったような気がし
た。



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なんかたくさん謝らないといけないですよね。
・前回の表示が変な空白が多くなってしまっていたこと。
・そもそも続編のアップが遅くなってしまったこと。
・前回の説明書きが誤りであったこと。

本当にすみませんでした。。。

で、今回もバーテンさんのお仕事への甚だしい勘違いやライルの性格の不確定さとかもごめんなさい。

クラライはくっついたようで、実はまだ恋人未満です。いつになったらくっつくんだろうか。

2009/12/15

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